2021年05月05日

日中戦初期「野戦電報」

平津通信総局1.jpg日中戦争の初期に京都から北支派遣軍の兵士に宛てた電報です。右下の丸二型赤色印「天津/通信総局 12.11.13」は昭和12(1937)年11月13日に天津で配達されたことを表します。実質的な「野戦電信局」による「野戦電報」です。

日中戦争は1937年7月7日の北京(当時は北平)郊外芦溝橋での日中交戦が発端でしたが、戦火は7月29日に天津に広がりました。南京の中華民国政府(国府)交通部に属する市内の郵便局、電報局、電話局など通信機関の職員はほとんどが避難したため、外国租界を除く全市が通信途絶状態となりました。

戦争の前から北平・天津(平津)地区に駐屯していた支那駐屯軍はすぐ通信網再建に着手します。日本軍との協力組織の天津治安維持会に指示し、電信・電話業務を管理する「平津通信総局」を天津に開設させました。通信総局は一切の業務を満州電信電話株式会社に委託し、満州電電の派遣員によって運営されました。満州電電の通信系が実質的に華北に拡張されたことを意味します。上の電報も満州電電の透かしが入った電報専用白紙が使われています。

通信総局は8月7日に国府交通部の天津電報電話総局の接収に着手しますが、失敗します。フランス租界内にあったため、治外法権を楯に拒否されたのです。接収をあきらめた通信総局は8月20日に日本租界内に通信総局電報局を新設しました。この電報局は山海関を経由して日本・満州との間に日中両文による送受信をしました。

この後、通信総局は支那駐屯軍の命令を受けて河北省東部の北平、豊台、通州、塘沽、唐山などで中国側電報局を次々と接収し、業務を再開させていきます。これらはいずれも駐屯軍の地域内の主要都市です。各電報局では日本人幹部の下で中国人職員も採用されました。一方、接収を免れた国府交通部の電報総局は業務を日本側に奪われ、自然消滅の形で38年1月に閉鎖されました。

このように、平津通信総局は形式上は中国側の天津治安維持会の下部組織ですが、実質的には支那駐屯軍の「軍用電信電話管理局」として機能しました。上の電報は恐らく兵站病院に入院中の兵士に宛てたと見られますが、戦闘中の個人宛て私用電報は、このような「野戦電信局」でもない限り扱われなかったでしょう。

日本軍が華北の主要都市を占領していく中で1938年1月1日に北京(北平を再改称)に華北電政総局が開設されます。支那駐屯軍の後身の北支那方面軍の管理下で、平津通信総局などの臨時機関を統合して華北の電信電話業務(電政)を一元化しました。電政総局はさらに7ヵ月後の8月1日、日本の傀儡政権・中華民国臨時政府(王克敏首班)による日中合弁の華北電電会社に改組されます。平津通信総局、華北電政総局が運営した約1年間が「野戦電信局」時代と言えそうです。
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本稿は主として外務省東亜局第1課編『支那事変関係執務報告』上巻第3冊(1937年)、北平陸軍機関編『北支事変解決後ノ處置』(1937年)によりました。共にJACAR(アジア歴史資料センター)の公開資料です。
posted by GANさん at 23:31| Comment(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする
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