2021年05月11日

郵便配達を隣組が肩代り

逗子2.jpg逗子1.jpgのはがきは終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に大分県高田局で引き受けられたものです。宛先は神奈川県逗子(当時は横須賀市の一部)で、表面中央部に「逗子第四町内会」と紫色の印が押されています。

太平洋戦争最末期の日本は全国の主要都市が米軍機による空襲(無差別爆撃)を受け、郵便逓送路は崩壊寸前でした。郵便職員の多くは戦場か軍需工場に動員され、臨時の女性職員に外勤作業は任せきれません。郵便サービスの中核とも言うべき郵便物の戸別配達さえ危うく、何らかの対策が必要でした。

郵政当局(当時は運輸通信省の外局の通信院)は45年1月17日に運輸通信省令第2号「戦時、事変又ハ非常災害時ノ郵便業務運行ニ関スル件」を出しました。この第4項で空襲を受け大混乱中などの場合には郵便配達を止め、郵便物の窓口交付や「郵便局指定ノ場所」に配達できる、と定めました。指定場所は隣組・町内会の事務所や代表者宅が想定されていました。

これは俗に「隣組一括配達」と呼ばれます。郵便局から郵便物を受け取った隣組では組員を集めて郵便物を手渡したり、あるいは係を決めて戸別配達しました。隣組配達をするかどうかは郵便局がそのたびに局内に掲示を出せば済み、報告も不要でした。このため、どの郵便局がいつ実際に隣組配達を行ったかという記録は残っていません。
逗子3.jpg
上に示したはがきの「逗子第四町内会」印()は隣組一括配達に回された郵便物であることを示すものと思います。押印位置などから差出人が押したとは考えられません。配達局の逗子局が宛先は「逗子第四町内会」に含まれると判定した区分印でしょう。他の同地区宛て郵便物と一括して町内会事務所に持ち込んだと思われます。

紫印の下に赤ペンで「ナシ」と読める書き込みがあります。町内会で調べて該当者がいなかったり、戦災で他所に転出して現在は不在であることを示すものかも知れません。しかし、返戻付箋の跡や他の書き込みはなく、結局は無事に届いたと考えたいところです。いずれにせよ、町内会の印からこのはがきが隣組配達された可能性は濃厚です。

隣組.jpg関連してもう1通のエンタイアを示します。は滋賀県醒井局で45年6月22日に引き受けられた東京・世田谷代田宛ての書留速達扱い封緘葉書です。宛先アドレスは通常の所番地に加えて「(代田二丁目西町会第五班三十三隣組)」と隣組名までも「余計に」書かれています。

東京は空襲の最大の標的だったので、世田谷代田もいつ焼け野原になるか知れません。これは隣組配達となる事態をあらかじめ想定して書き込まれたのではないでしょうか。もちろん差出人の思い付きではなく、受取人から事前に依頼(指示)があってのことでしょう。

都内区部の各世帯には区役所や郵便局などから「郵便物のリターンアドレスに隣組名も加えるよう」指導が出ていた可能性が考えられます。しかし(想像ですが)この封緘葉書が実際に隣組配達されることはなかったでしょう。
posted by GANさん at 03:16| Comment(0) | 太平洋戦争混乱期 | 更新情報をチェックする
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