2021年06月27日

朝鮮・南陽出張所唐草印

穏城・出2.jpg穏城・出1.jpg右図は昭和10年の軍事年賀郵便書状です。朝鮮国境に近い満州の図們守備隊から発信されました。第4種郵便物(印刷物)としたつもりか無封ですが、軍事郵便は無料なので無意味です。

それは措くとして、封筒左上部の小型な消印をご覧下さい。不鮮明ですが、「穏城・出/10.1.1/前0-8」と読めます(右下図)。これはいわゆる唐草印(L波機械印)のデータサイクル部で、穏城・出3.jpgこの上にある6本波線部は機械の送りエラーで印刷されていません。

局名の「出」は出張所の略で、朝鮮の穏城局南陽出張所を表します。満州との国境の図們江(豆満江)に面した咸鏡北道穏城郡柔浦面南陽洞に昭和9(1934)年4月16日に開設*されました。朝鮮の「面」は日本の村、「洞」は字(あざ)に当たるようです。別のはがきから櫛型印の方を右下に示します。南陽出張所は翌1935年10月1日に昇格して穏城/出.jpg南陽局となっています。
*正確には郵便取扱開始。末尾の【追記】をご参照下さい。

機械印研究者の関利貞氏著『林式郵便葉書押印機による印影について(中編)』(2001年)の唐草印使用局リストには南陽出張所はなく、昇格後の南陽局で11年1月1日のデータのみ載っています。日本内地と朝鮮を通じて出張所の唐草印データは同書に見当たらず、この年賀書状が初出のようです。9年正月にこの出張所は郵便未開設だったので、唐草印の使用は10年年賀用の一回限りだったと思われます。

穏城局ですら朝鮮の専門家しか知らないような山深い辺境の局です。まして出張所が開設された南陽はさらに辺鄙な小集落に過ぎません。そんなド田舎の出張所に、なぜ当時としては貴重で希少な郵便押印機が導入されたのでしょうか。NANYO2.jpg

明確な資料は未見ですが、南陽局が1935年12月に「満洲国」図們局との間の外国郵便交換局に指定されたことと関係がありそうです。交換局としての南陽局は「NANYO」の欧文印(右図=荒井氏の後述書より)を使ったことが知られています。そして、郵便交換は鉄道の開通で始まったと思われます。

南陽地図_2.jpg南満州鉄道会社(満鉄)が1938年に作成した鉄道線路図によると、満州の京図線図們駅と朝鮮の北鮮線南陽駅とが直結されています(左図)。両線とも満鉄の委託経営線でした。地図にはありませんが、南陽駅の二つ北(図では上)隣が穏城駅です。図們から図們江を鉄道橋で渡る連絡線を敷くと南陽に出るので、そこに新駅を作り、郵便局出張所も開設された、という順序だったかも知れません。

この年賀状を発信した図們守備隊は、もちろん満州側、関東軍の部隊ですが、満洲国の図們局ではなく川向こうの朝鮮局にわざわざ持ち込んでいます。北上して新京や奉天を経由する本来のルートより、朝鮮側に南下して会寧、清津経由で日本海を渡り、新潟に送った方が遙かに速達するからです。

南陽では独立局に昇格して正式な交換局に指定される以前から、事実として交換局に等しい役割を果たしていた模様がうかがえます。田舎の一出張所に過ぎないのに押印機が導入されたのも、当然の流れだったと言えそうです。

これとよく似た満鮮国境での別のケースについて、以前にも本ブログ「朝鮮局で取り扱う満州辺地便」(2014年2月19日)で書いたことがあります。関心をお持ちの方はこちらもご参照下さい。
                   
(本稿執筆に当たり、荒井國太郎氏『思い出の消印集』(1973年、日本郵便史学会刊)を参照しました。)
                   ☆
追記】(2021.07.01)鉄道郵便専収家の林志明氏から朝鮮総督府告示などにつきご教示いただき、南陽駅と南陽局開設の前後関係を次のように整理できました。林氏に感謝します。
 1932.11.01 北鮮線穏城-豊利間延伸、豊利駅開業
 1932.12.01 北鮮線豊利-南陽間延伸、南陽駅開業
 1933.02.16 南陽駅構内に南陽電信取扱所開設
 1933.04.20 満州・敦図線図們-南陽間連絡線開通
 1933.06.01 穏城局南陽出張所開設、南陽電信取扱所の電信事務移管
 1934.04.16 穏城局南陽出張所で郵便事務取扱開始
 1935.01.01 穏城局南陽出張所で機械印使用
 1935.10.01 南陽局開設(穏城局出張所が昇格)
 1935.12. - 南陽局を図們局との外国郵便交換局に指定

posted by GANさん at 02:01| Comment(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする
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