

切手展に出展を目指す人にとっては、郵便史部門の3要素とされる「料金、経路、郵便印」のうち料金はもちろん郵便印さえも欠いて、腕を振るう余地が制限されます。「軍事郵便は出展に不向き」と敬遠される理由ともなっています。

これを逆に見ると、消印がない軍事郵便でも発信地や時期を割り出し、第三者にも納得させる技量こそが「見せ場」となります。まあ、審査員諸賢らにその理解力を求めるのはムリというものでしょうが。―― そういった面倒な話は今回は棚に上げて、いつから、なぜ、軍事郵便に野戦局などの消印が押されなくなったのかを考えて見ます。
軍事郵便への押印省略の開始は、一般に言われている「日中戦争開始時(1937年7月)から」ではありません。満州に駐屯する関東軍が1935(昭和10)年12月1日から軍事郵便の消印の「押捺ヲ省略スルコトニ致シ候」と陸軍省に通知(11月28日付關副乙第1167号=右図)していたのです。
例年、年賀状の特別取扱は12月上旬に始まります。関東軍将兵からの大量差出が始まる直前のタイミングで決定したのでしょう。以後、1945年の敗戦時まで軍事郵便の消印省略は続きます。この通知に基づいて消印を押さなくなった最初の年賀状を右上図に示しました。「皇紀2596年1月1日」と印刷されていますが、これは1936(昭和11)年元旦を意味します。

比較のためこの前年、昭和10年の関東軍兵士からの年賀状(左図)も示します。これが年賀特別取扱を受けた軍事郵便に消印が押された最後です。奉天局第9分室(熱河省朝陽野戦局)の例ですが、新京、四平街局の分室(野戦局)でも同様でした。昭和11、12年の元旦印を持つ分室の年賀状は存在しません。
これらの実例から、消印省略は日中戦争から始まったとする通説が誤りなのは明らかです。省略した理由も、従来は「軍事機密が漏れるのを防ぐため」とする考えが有力でした。しかし、1935年当時の満州と関東軍は平穏で、とくに軍機漏洩を恐れる状況ではありません。理由は単純に「省力化」だったでしょう。
ところで、関東軍の「押印省略」通知に対応する逓信当局の告示・公達類は見当たりませんでした。軍事郵便を取り扱う野戦局だけの問題ですが、関東軍の一存で決定できるはずもありません。関東逓信局が関与したことは疑いなく、その関連資料の発掘が今後の課題です。