
樺太の風光や産業を撮影した写真版で、青色4種、セピア5種の計9枚ですが、



さらに、この紫色印の日付部分だけを隠すように黒色スタンプが再押印されています。(左図=上図の1枚だけはこの黒色スタンプの再押印漏れ)
「拓殖博覧会」は今日では死語ですが、戦前の大日本帝国時代には多用されました。各植民地での開発(拓殖)進展ぶりを内地(日本本土)国民に示して国威発揚を図る大がかりなイベントでした。内地からの移住促進も大きな目的だったはずです。呼び物は現地を再現するジオラマで、産出品の現物や風物写真の展示が中心でした。
これらから見て、この絵はがきは樺太庁が管内事情を広く紹介するために10種1組袋入りで発行したと思われます。大正元(1912)年10月1日から内地で開かれる拓殖博覧会の会場パビリオン内で発売する予定でした。ところが、印刷完了後にその趣旨の表示が欠けていることに気付きます。
刷り直しを避ける窮余の策として、スタンプの加捺でそれを補ったのだと思います。しかし、計算違いが起きます。用意した絵はがきは売り切れるどころか、逆に大量の売れ残りを出してしまいました。樺太庁は次に開かれる拓殖博での再利用を図ります。日付を巧みに消し、いつの拓殖博でも使えるようにしたのでしょう。

また、同図案を青色とセピアで刷ったものが2組ずつあり、どの図案も色違いの2色で印刷されたことを示唆しています。全貌は分からないものの、なかなかバラエティーの豊富なシリーズです。


これらから、大正2年4月に大阪で開かれた明治紀念拓殖博でこの絵はがきが再利用されたことが推測されます。先に示した二重スタンプで日付部分を抹消した絵はがきセットが大阪でも売られた可能性はありますが、断定は出来ません。
絵はがき9種に付けられている写真説明は次の通りです。
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太畑地ノ開墾、樺太海馬島(以上青色)
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太産蔬菜類、樺太漁場生鰊ノ貯藏、樺太農家
ノ収穫(以上セピア)