2021年02月08日

樺太拓殖博記念絵はがき

樺太1.jpg樺太庁が発行した記念絵はがきと思われるセット(左図の上はそのうち1種)を近年のヤフオクで入手しました。島田健造氏『日本記念絵葉書総図鑑』(2009年復刻版)には採録されていないので、新発見となる可能性があります。

樺太の風光や産業を撮影した写真版で、青色4種、セピア5種の計9枚ですが、E6A8BAE5A4AA4.jpg青色1種が欠けていると思います。表面(宛名面=左図の下)には「郵便はがき」と英文「POST CARD」だけで、「〇〇記念」といった発行目的を示す表記はありません。裏面(絵面)に写真説明(後述)と並んで「樺太廳發行」と発行者名が印刷されています。

この絵はがきはすべての絵面に櫛型印を模した樺太1-2.jpg「樺太/1.10.1/拓殖博覧会記念」の紫色スタンプ(右図の上)が押されています。印刷したような鮮明印ですが、1枚ごとに押印位置や傾きが異なるので印刷ではないようです。さらに、ほとんどの絵はがきでこの紫色印の日付部分だけを隠すように黒色スタンプが再押印されています(右図の下)。
樺太2-1.jpg
「拓殖博覧会」は今日では死語ですが、戦前の大日本帝国時代には多用されました。各植民地での開発(拓殖)進展ぶりを内地(日本本土)国民に示して国威発揚を図る大がかりなイベントでした。内地からの移住促進も大きな目的だったはずです。呼び物は現地を再現するジオラマで、産出品の現物や風物写真の展示が中心でした。こういった点から、この絵はがきは樺太庁が管内事情を広く紹介するために10種1組袋入りで発行したと思われます。

大正元(1912)年10月1日から開かれる拓殖博覧会の会場パビリオン内でこれが発売される予定でした。ところが、印刷完了後にその趣旨の表示が欠けていることに気付きます。刷り直しを避ける窮余の策として、スタンプの加捺でそれを補い、急場をしのぎました。

しかし、計算違いが起きます。用意した絵はがきは売り切れるどころか、逆に大量の売れ残りを出してしまいました。樺太庁は次に開かれる拓殖博での再利用を図ります。日付を巧みに消し、いつの拓殖博でも使えるようにしました。--という、以上2段落はGANの単なる推測です。

樺太3.jpgこの9種セットとは別に、1枚だけ単独で入手した紙厚の薄いもの(右図)があります。厚手の9種セットの方は紙厚0.3㎜ですが、薄手のこれは0.2㎜です。用紙を替え、印刷が2回行われたことを意味します。

また、同図案を青色とセピアで刷ったものが2組ずつあり、どの図案も色違いの2色で印刷されたことを示唆しています。全貌は分からないものの、なかなかバラエティーの豊富なシリーズです。

樺太3-2.jpg樺太3-1.jpg薄手の絵はがきには紫色と茶色のスタンプが押されています。紫色印(右図の左)は厚手と同じ文言ですが、形式が丸二型類似です。茶色印(右図の右)も丸二型類似印ですが、日付は「2-4-21」で博覧会名に「明治紀念」が加わり、E欄部分には「大阪」と入っています。

これらから、大正2年4月に大阪で開かれた明治紀念拓殖博でこの絵はがきが再利用されたことが推測されます。先に示した二重スタンプで日付部分を抹消した絵はがきセットが大阪でも売られた可能性はありますが、断定は出来ません。

絵はがき9種に付けられている写真説明は次の通りです。
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太畑地ノ開墾、樺太海馬島(以上青色)
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太産蔬菜類、樺太漁場生鰊ノ貯藏、樺太農家
 ノ収穫(以上セピア)

なお、これらの絵はがきが「大正」ではなく、「昭和」に発行されたのではないかとの疑いも起こり得ます。しかし、これは「大正」で正しいと思います。2種の紫色スタンプの日付「1-10-1」が根拠です。大正元年は7月から12月まであるのに対して、昭和元年は12月しかないからです。
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2021年01月09日

台湾郵便受取所型櫛型印

大西門.jpg菊5銭2枚貼り封書を台湾の台南大西門郵便受取所が1908年(明治41)10月7日に引き受けた書留書状です。明治末期の台湾だけで使われた特異なタイプの日付印で引き受けられています。

台湾では民政(普通)郵便を本格的に開始した直後の1896(明治29)年9月から集配を扱う1-3等郵便局とは別に、無集配の「郵便受取所」が新設されました。丸一印時代は局種による表示形式の区別はなかったのですが、明治39(1906)年10月から櫛型印に切り替わると、郵便局と受取所とでは形式が明確に分かれました(台湾総督府明治39年訓令第48号、135号)。

受取所型櫛型印の上部は櫛型がなく水平2行書きです(左図)。この時期は櫛型印が日本本土、在外局、植民地を通じ相次いで導入されましたが、このような表示形式が定められたのは台湾だけです。性格の似る満州大稲埕支局2.jpg(関東都督府管内)の出張所では、出張所名をC欄で時刻帯に代えて表示する形式でした。

台湾の受取所でこのような表示形式が採用されたのは、それまで使っていた丸一印の名残かも知れません。丸一印の上部局所名が「臺湾/臺北大稲埕」(台北局大稲埕支局)といった表示形式(右図)だったからです。すると、すぐ思い浮かぶのが「丸一印の上部印体を櫛型印に流用してはいないか」という疑問です。形式上は全く同じなので、もっともと言えます。

しかし、これについては既に水野虎杖氏が顕微鏡的な観察も加えて考察し、次のように明快に否定しています。
(受取所櫛型印の)上部印はしかし、丸一印のそれの転用ではなく、櫛型印用の印材に彫られたもの、丸一印用ならばもっと小形。(『櫛型印の形態学序論』第4巻p.78f、1972年)
なお、水野氏はこれら台湾の丸一印と初期櫛型印の上部印体(AD欄)は木や角のような印材を使った手彫りで、彫刻者も同一であったという考えも提出しています。(上掲書p.82n)

非常に示唆に富んだ台湾の受取所型日付印でしたが、1911(明治44)年一杯で姿を消します。大正に入ってからの使用例はありません。廃止を定めた告示類があるはずと筆者は考え、台湾の法令を2年間ほどにわたって捜したのですが、見当たりません。結局分かったことは、印影形式は廃止しないまま、受取所制度自体がなくなった事実でした。

台湾総督府の明治44(1911)年告示第190号によると、「45年1月21日から郵便受取所を3等郵便局に改定する」「但し郵便集配事務は扱わない」とあります。以後の3等局は集配局と無集配局とが併存することになりました。内地で先行する3等局制度に合わせたようです。

この上部2行書き櫛型印は「受取所ニ用ウルモノ」と訓令で定められていました。受取所が郵便局に変わると日付印も郵便局が使う普通の「A欄局所名/D欄櫛型」に変わります。受取所用印を使うべき局所がなくなるので、この形式を廃止する告示類は無要だったのです。

追記 】(2021.01.13) 「鉄道郵便印の備忘録」ブログのオーナー様から台湾での櫛型印導入時期は「明治39年10月から」が正しい旨のご指摘をいただきました。GANは初め、総督府訓令第48号に基づいて「39年7月から」としていました。ご指摘によりその後に訓令第135号が出て導入時期が3ヵ月遅らされた事実を知りました。このため記事中の「7月から」を「10月から」に訂正しました。

調べてみると、JPSの『日本郵便印ハンドブック』も訓令第135号の存在を知らずにGANと同じ過ちをしていました。鳴美の『郵便消印百科事典』もほぼ同様ですが、櫛型印導入で廃止されたはずの丸一印が明治39年9月まで使われている事実を指摘し、実証的です。ご教示下さった「鉄道郵便印の備忘録」オーナー様に改めて感謝します。
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2017年09月30日

高雄局年賀機械印の誤刻

高雄.jpg台湾の高雄局が年賀特別取扱で引き受けた1936年(昭和11)の年賀はがきです。この年から発行されるようになった年賀切手を貼り、台湾だけで使われた年賀用特別図案の入った大型機械印が押されています。

この機械印の図案は、上部に交差した日章旗の中に「謹賀新年」の文字、その下部に椰子の樹と華風楼閣を配し、波間に飛ぶ海鳥がそれらを結んでいます。台湾の新年を象徴する分かりやすいデザインです。内地など台湾以外で使われた「松喰鶴」図案の小型機械印が地味に感じられてしまいます。

台北年賀2.jpgよく見ると、機械印下部の局名や日付などを表す円形のデータサイクル内で、左右の唐草模様が「・」(中点、黒点)で結ばれています。台湾では「台」字を図案化した台湾逓信の徽章を入れるのが本来で、現に同じ機械印が使われた他の1、2等局10局ではすべて正常な逓信徽章入りを使っています(左図)。この高雄局印は従って、エラーです。

戦前に活躍した高名な収集家の藤堂太刀雄氏は当時、植民地も含めた日本の全郵便局(!!)に郵賴して年賀印を集めました。成果の一つとして、この台湾の年賀機械印は全11局で図案の細部がすべて異なっていることを報告しています(『切手趣味』V.13 N.4=昭和11年4月号)。鋳型で大量生産したのではなく、「手彫り」らしいことを示唆しているのです。

高雄データサイクル2.JPG藤堂氏は高雄局年賀機械印の異常な「黒点」は発表しましたが、原因にまでは踏み込んでいません。GANの解釈では、図案部だけでなくデータサイクル部も手彫りした結果と考えます。年賀特別扱の専用印で日付更埴が不要だからです。「高雄」の字体にも「手彫り感」があります。逓信徽章を彫る際に位置の見当として「仮彫り」し、そのまま「忘刻」となったのではないでしょうか(右図)。

ところでこの年賀状、受取人の「戸田龍雄」は「藤堂太刀雄」(筆名)の本名です。裏面は普通の人からで、藤堂氏が郵賴して返ってきたものではありません。切手、消印、練達の筆書き、それらにプラスして消印のエラー。数十年前に入手しましたが、大事にしている一品です。

追記(2017.11.16)近着の台北発行『環球華郵研究』第4期所載の簡宗鈞「台湾日治時期変異郵戳蒐奇」によると、簡氏はこの「変異」の原因を逓信博物館の練習機を持ち込んで臨時使用したため、としています。逓博は逓信講習所ではないかとも思いますが、GANは基本的にこの見解に賛成です。簡氏は特に根拠を示してはいませんが、確認できれば上記した「手彫りによる忘刻」説は撤回します。
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2017年08月27日

樺太異型為替印をリユース

大谷櫛葉書.jpg樺太・大谷局で昭和18年(1943)10月6日に引き受けられた楠公はがきです。特異な発信アドレスに加えて検閲印もあり、一見して軍事郵便のようですが、有料の完全な内国第2種普通郵便です。

この大谷局日付印は特別珍しくもありませんが、形式が特異です。局名「樺太大谷」は明瞭なのに、その下(D欄)が空白で、本来入るべき櫛型がありません(下図-)。GANはこれまで活字挿入の不具合か、押印のさいの微妙な力加減かでこのようになったかと考えていました。最近になってこの疑問はとっくに「解明」されていたことに気付きました。

浜松の消印研究家で故人となられた池田進氏著『日本消印事典(3)』(1972年、萬趣会)の「樺太の消印」の項で、「C欄星3つ」型のバラエティとして、この異型印の印影が発表されていました(p.74)。池田氏は「大正7年ごろまで使われたと考えられる丸二型為替印の局名活字の再使用によるものである」と注記しています。

樺太では大正時代初期に独特の丸二型印が導入されました。郵便電信印では上部「樺太」で下部局名、為替貯金印では上部局名で下部為替貯金記号というタイプです。通常、これらの活字の配列は水平ですが、一部の局では局名が外円に沿って弧状のバラエティが使われました。郵便電信印で野田寒、為替貯金印では大谷の例(下図-中央)を池田氏は挙げています。

大谷無.jpg池田.jpg大谷櫛.jpg
つまり、大谷局では1940年前後に大正時代に使っていた為替貯金印を引っ張り出し、その下部印体だけを「C欄★3個」に差し替えて郵便用にリユース(再利用)した。上部は普通の櫛型印のA欄のように見えるが、本来が丸二型印なのでD欄などない--というわけです。大谷局では正常な櫛型印(上図-)も併行して使っています。リユースの理由は、時局(戦争)による資材節約を理由とする時刻表示廃止、「★3個」型導入と関連がありそうです。

恒例の「蛇足」です。このはがきの「大谷郵便函11号ノ2」という発信アドレスは、1940年(昭和15)1月から使用が始まった特別な表記法です。前年5月に配置された樺太混成旅団の存在をソ連に対して秘匿するため、部隊名の代わりとして導入されました。上敷香、豊原、内路、気屯など数局の使用例が知られますが、部隊名を始め使用状況はまだ「解読」されていません。

もう一つ蛇足。池田氏は櫛型印について解説した『日本消印事典』第3巻をまず出版しましたが、他は未刊に終わりました。後に『櫛型日付印詳説』上・下巻(1975・76年、萬趣会)を出しましたが、この樺太丸二型印の異型バラエティについては言及していません。
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2016年11月06日

朝鮮・会寧局の異型印

会寧.jpg日露戦勝記念1.5銭を貼った絵はがきです。朝鮮(韓国)の北東端、咸鏡北道の会寧局が櫛型印で引受け、同じ道内の輸城局が丸一印で配達しています。

東京で開かれていたJAPEX最終日の11月6日に、同じ会場であった大手ディーラーのフロアオークションで落とした内の1点。まだ湯気の立っているホヤホヤ品です。

発・受信者は共に元韓国駐箚軍東部兵站監部郵便部時代の同僚(野戦局員)だったことが別の資料から分かっています。韓国駐箚軍東部の管轄地だった咸鏡北道の城津以北地区は、明治38(1905)年10月末に全野戦局が撤廃され、普通郵便局所に引き継がれました。野戦局員の多くは普通局に転属しています。

朝鮮の野戦局は基本的には38年9月末までに閉鎖され、普通局に引き継がれたのですが、この地区だけは1、2ヵ月遅れました。ロシア国境に接しているためロシア軍に占領され、日本軍の回収が遅れたからです。城津局はロシア軍部隊に侵攻された1904年4月に閉鎖に追い込まれ、翌05年8月まで再開できませんでした。会寧も輸城もロシア軍の占領区域内でした。

このはがきで会寧局の櫛型印は明治39年6月15日、輸城局(正確には共に城津局の出張所ですが、簡略して「局」と表現します)の丸一印は2日後の17日です。とくに輸城局は半月前の6月1日に開設(郵便事務開始)したばかりでした。日付印の配備状況を調べる好資料になると思います。

ここで会寧局の櫛型印がとても異様なのが目立ちます。A欄の局名が印の上方外側弧線に沿って右書きで並ぶべきところ、逆向きになっています。C欄には本来は時刻活字が入るべきなのに、A欄と同じ逆向き局名です。もともと郵便でなく電信用に作られた日付印の下部印体(C.E欄)を郵便用に流用したために異様な印影になりました。

朝鮮では各地に軍の電信部隊である軍用通信所が多数開設されました。主要地では開戦初期の1904(明治37)年4月から民間人の公衆電報も有料で扱いました。朝鮮内に開設される日本普通局は当初から電信(電報)を扱いましたが、未通地区では普通局が軍用通信所の電信事務を移管されて公衆電報を始めています。

城津以北地区では、野戦局や軍用通信所から普通局への切り替えが遅れ、ほとんどが開局した後で軍の電信事務を引き継ぎました。切り替えを急ぐ余り、軍用通信所の名前だけ普通局に変え、郵便を扱わない電信専用局として開設された例もあります。会寧では06年3月31日限りで会寧軍用通信所が廃止され、4月1日から会寧局が電信事務を引き継ぎました。

これらの普通局で丸一印を使っている間は問題なかったのですが、櫛型印が導入され始めると混乱が起きました。上述した地域的な特殊事情もあって、普通局としての日付印が開局に間に合わない局が続出したのです。

兼二浦.jpgそうした普通局では、やむなく軍用通信所時代の電信印を郵便用にもそのまま使ったり、局名活字だけ郵便用に流用して一時しのぎとしました。ところが、その電信印は、A欄「韓」、C欄局所名という形式です(左図はその一例)。郵便印ではA欄の局名文字の並びが上方に凸型なのに、電信印はC欄局名なので下方に凸型と逆です。電信用局名活字をA欄にはめ込むと、局名が逆向きとなってしまいました。

--前説が長くなり過ぎましたが、会寧局で異型な印が使われた背景には、このような複雑で煩瑣な事情があったとGANは考えています。誤って使ってしまったのではなく、正規の形式でないことを承知で敢えて使い続けたという意味で、これはエラー印とは言えません。

会寧局と似た異型印の例は清津、茂山、北青、甲山、長津、堤川の各局でも見られます。ただし、これら咸鏡北道とは無縁の京城西大門や漢江坊、虎島などの局所にも異型印の郵便使用例があります。軍用通信所での丸一印から櫛型印(A欄「韓」、C欄所名)への切り替え時期なども含め、さらに考察が必要です。
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2016年10月30日

民政直後ヤップ局臨時印

YAP.jpg近着の南洋群島ヤップ発信の絵はがきです。9月の関西のメールオークションで入手しました。田沢1.5銭を貼り、ヤップ局大正11(1922)年6月25日の日付印で引き受けられています。発信者は東京からヤップ島に出張した逓信省職員のようです。

この日付印は、本来なら「郵便局」と入るべきC欄とその直上のE欄櫛歯が欠けています。たまたま写りが悪かったのでしょうか。いいえ、印影下部の円形外郭線と日付部桁線は極めて明瞭です。下部印体(C・E欄)が挿入されないままで押印したことが想定できます。

南洋群島は第1次大戦期までドイツの植民地でした。大戦初期に日本海軍が南遣枝隊を派遣して占領し、戦後発足した国際連盟によって日本の委任統治領に指定されました。正式に日本領となったので軍政は終わり、1922年4月1日から民政に移行しました。このはがきは民政に変わってまだ3ヵ月足らずの郵便ということになります。

ところで、南洋群島の統治機関・南洋庁は日付印には時刻表示をしないことに決めました(1922年4月1日、南洋庁訓令第4号)。管内の郵便物取扱量が非常に少ないので、省力化を図ったのです。時刻表示部分(C欄)には、さして意味もない「郵便局」と変更して「穴埋め」しました。

恐らくこの変更措置を決定するのが非常に遅れたのでしょう。「郵便局」表示の下部印体の製造を遠く内地に発注し、出来上がって南洋に届くまでに3ヵ月以上掛かってしまいました。その間、各局で実際に引き受けた郵便物には、軍政時代の旧海軍軍用郵便所印をそのまま使ったり、下部を空欄のままにした日付印を間に合わせで使ったのでしょう。

荻原海一氏『南洋群島の郵便史』には、ポナペ局大正11年6月17日の海軍軍用郵便所日付印が押された分銅はがきの例が発表されています。荻原氏はこれを局員のうっかりミスと考え、「南洋庁になってから2ヵ月余り、ポナペ局は何をやっていたのだろう。」とあきれています。

そうではなく、「郵便局」の印体が間に合わないための一種の臨時印だとGANは考えます。これは民政移行直後の混乱期に発生した短期間の珍しい使用例なのです。正式な「郵便局」印がいつから使われ始めたのか、当局側の記録は見つかっていません。この年の夏から秋にかけての日付印データを今後集積することで解明できるはずだと思います。
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2014年06月06日

南洋発売の立太子礼記念

PONAPE-2.JPGPONAPE.jpg日本海軍占領下の南洋群島ポナペから発信された普通郵便です。2倍重量便として6銭分の切手が貼られています。中で1枚、大正5(1916)年11月3日発行の立太子礼記念3銭切手が目立ちます。

この封書は田沢1銭と2銭、大正立太子礼記念3銭を貼って大正5(1916)年11月18日に発信、ポナペ艦船郵便所で6日後の11月24日に引き受けられています。

この日が内地に向かう郵便船の寄港日だったのでしょう。東京には12月11日と効率よく到着しています。

差出人は南洋貿易ポナペ支店の女性従業員(あるいは従業員の妻)のようです。旅行者と違い、内地からの記念切手の持ち込み使用とは見えません。「海軍の野戦局」である艦船郵便所などで、いったい記念切手を発売したものでしょうか。

ごく少量ですが、この記念切手を艦船郵便所で正式に発売した記録が防衛省防衛研究所の保管資料中に残っています。逓信省通信局長発首席艦船郵便吏宛ての「立太子礼記念切手及特殊通信日附印等交付ノ件」(大正5年9月20日、秘第1634号)がそれです。

1.5銭切手と3銭切手を各1千枚、10銭切手(いわゆる「冠」)3百枚を南洋の陸上8ヵ所、船内3ヵ所の計11郵便所で内地と同時発売することなどを指示しています。ただし、10銭切手は配給取り止めになったようで、事後の記録では触れられていません。

臨時南洋群島防備隊の海軍軍人や海軍文官は無料軍事郵便が利用できました。このころようやく進出が始まった商店や鉱山の従業員などの民間人が記念切手の売り捌き対象だったようです。いずれにせよ、少数でしかありません。

南洋の陸上郵便所の中でもポナペは小局だったので、割当量は恐らく数十枚しかなかったでしょう。この記念切手は極めて「貴重品」だったはずです。この封筒に記念切手の2枚貼りのような「贅沢」使用をしていないのは、そのためだったかも知れません。

やはり防衛研究所保管の『大正4年乃至11年海軍軍用郵便記録』によると、このほかにも南洋の艦船郵便所・海軍軍用郵便所で記念切手や逓信省記念絵葉書が発売されています。大正大礼(1915年11月)を最初に、平和(1919年7月)、国勢調査(1920年10月)、通信事業50年(1921年4月)の4回でした。

記念切手の発売枚数はいずれも1千-2千枚程度と少量です。郵趣家便を含めても、これらの実逓カバーを目にする機会は、そう多くありません。
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2014年05月12日

日露開戦直後韓国公用便

RUSS-FRA 1.jpg日露開戦直後に独立帝国・韓国の政府機関が発信した公文書の封筒です。近年の香港のオークションで入手しました。

封筒には韓国の鷹3銭切手が貼られ、仁川局で光武8年(1904=明治37年)3月4日に引き受け、漢城(日本人の言う「京城」)局に翌5日に到着しています。

この封書は韓国の仁川監署(貿易管理官事務所)が差出しています。名宛ては「仁川駐在ロシア副領事事務代行 漢城駐在フランス副領事 貝閣下」となっています。裏面に仁川監署のアドレスなどはなく、封じ目に国章・陰陽文に漢字を配した丸型朱印だけが押されています。

1904年3月は開戦から1ヵ月足らず後ですが、仁川・漢城の一帯はすでに日本軍が占領していました。開戦の前後にロシア外交官は韓国から撤退したため、韓国に於けるロシアの利益代表として同盟国フランスが指定されていました。

仁川監署では仁川駐在ロシア副領事へ公務上の連絡があったので、漢城のフランス副領事に回送したのだと思われます。副領事閣下の「貝」は漢字に置き換えたフランスの人名で、たとえば、「ベイル」などといった名前なのでしょう。

日露戦争を巡り、日・露・韓・仏の関係を象徴する興味深いカバーだとGANは考えています。
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2014年05月10日

台湾先住民へ内容証明便

内容証明郵便としてKANSEI.jpgの証明を受けた通信文です。台湾・関西局で昭和17(1942)年8月8日に受け付けられ、照合用の副本として郵便局で保存されていました。正本2通は証明を受けて差出人に戻されています。

薄い半紙1枚にカーボン複写された文書の左半分だけを画像に示しました。右半分には「通知書」と題されています。中文で書かれているので正確なことは分かりませんが、商取引上のトラブルについての異議申立の書類のようです。差出人は日本人です。

ここで興味深いのは被通知人(名宛人)である「邱阿富」氏の住居表示です。「新竹郡蕃地馬武督社小地名而完窩」とあるのが目に付きます。「マブト社シカンカ」とでも読むのでしょうか。

「蕃地」とは領有当時に「蛮人」、この時代には「高砂族」と呼ばれた山地に住む非漢族系先住民の居住地のことではありませんか。「社」は「村」に相当する高砂族集落特有の名称です。名宛人は中国系の名前に見えますが、先住民本人なのでしょう。

この書類から想像出来ることは、1940年代の先住民が日本から乗り込んできた商人と対等にビジネス上の応酬をしていた、ということです。もはや、「野蛮な人々」どころではない。語弊を恐れず言うなら、日本植民地政策の功罪の「功」の一つかも知れません。

この内容証明では文書1枚の料金20銭が1次昭和切手で納められています。郵便局保存分なので、関西局では納付された切手を貼って日付印で抹消しています。内容証明料金はこの年4月に10銭から20銭へと2倍に値上げされたばかりでした。
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2014年02月19日

朝鮮局で扱う満洲辺地便

大栗子.jpg朝鮮の「満州国」との国境、鴨緑江岸の中江鎮局私書函に宛てた内地からの封書です。不鮮明ですが、京都市の「七條 15.8.6」の消印で引き受けられています。最近入手しました。

中江鎮は西流する鴨緑江が上流部で屈曲して最も北、満洲側に突き出した江岸の小集落です。対岸の満洲側は中心的な地方都市の臨江(帽児山)なので、朝鮮総督府は中江鎮を重視し、国境守備隊を配置し郵便局も開設していました。臨江局との外国郵便交換局に指定され、希少な欧文印TYUKOTINを使った局として知られます。

ところで、封筒の宛先の大栗子溝採鉱所ですが、所在地は中江鎮局管内ではなく、満州国臨江県です。大栗子は臨江の郊外、鴨緑江にも近い小集落と思われます。非常に詳しい1939年版「満州国輿地図」(陸地測量部製作=複製)で位置を探したのですが、見当たりません。それほどの辺地ということでしょう。

余談ですが、この小集落は歴史上に名が残っています。1945年8月にソ連軍が満洲に侵攻した際、満州国皇帝溥儀は関東軍首脳と共に「決戦陣地」に用意された通化に避難しました。さらに大栗子に逃れ、8月18日に皇帝退位・国家解散を自ら宣言します。大栗子は満州国終焉の地なのです。

通常なら、大栗子への郵便物はいったん奉天に達してから延々と奥地を南下し、はるばる鴨緑江岸に達します。この「奉天ルート」に対し、新義州から鴨緑江沿いに東進する「江岸ルート」。なるほど、中江鎮や満浦鎮対岸の満洲宛てなら、後者のルートがはるかに合理的で速達します。

満州国所在の採鉱所の従業員が国境を越え、外国である日本(朝鮮)の局で郵便物を受け取る――。郵便管轄権がもとより異なるので普通はあり得ない事例です。日本と満洲国との特殊関係から許されたのでしょう。何らかの協定があったと思われますが、GANは未見です。

それにしても、これは内国郵便なのでしょうか、それとも国際郵便に分類すべきなのか? 悩ましいエンタイアを作ってくれたものです。
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