

このはがきは阿波国共同汽船会社所属の貨客船「第36共同丸」で大連-青島線に乗務する船員が発信しました。大連局機械印で昭和5(1930)年8月4日に引き受けられています。通信文には世界大恐慌の中での海運不況に加えて中国銀貨暴落のダブルパンチなど興味深い内容に溢れていますが、それらは省略します。
この船員は復航最終日の8月4日、大連に入港する当日に船内郵便箱に投函したのでしょう。もちろん、船内郵便局が開設されていたわけではありません。入港後に担当事務員が開函し、航行中に船内で投函された郵便物全部にこの日付印を押して大連局に直接持ち込んだと考えられます。このため大連局ではPAQUEBOT印や「船内郵便」印を押していません。
発信者としては上陸後に港内のポストまで行くより船内で投函した方が便利で、結果的にも大連局に早く運ばれることを知っていたのでしょう。会社の経営状況などの詳細な内幕を述べる通信文のニュアンスから、船長や事務長クラスの幹部ではないかと思います。

阿波国共同汽船が扱った「船内郵便」印については、大昔の『消印とエンタイヤ』誌に別の共同丸の日付印が発表されています。今回その記事を求めて大捜索しましたが、結局見つかりませんでした。記憶ではこれより大型で左書きの印だったような印象がありますが、半世紀以上も前のことで定かではありません。
この時代に大連局で引き受けられた船内郵便については、縦書き明朝体「船内郵便」印などがよく知られ、詳細を究めた稲葉良一氏の展示作品「大連局の船内投函郵便印」(2007年)もあります。船会社の「私印」ではありますが、今回のような印も船内郵便印の一種として扱うべきだとGANは考えています。

このはがきは青島の在留邦人から大阪の製薬会社宛てで、大連局欧文印で引き受けられています。発信者は青島入港中のこの船を訪ねて船員に託し、復航便の船内郵便箱に投函されたのでしょう。青島からの発信として、考えられる最速の逓送路に載ったことになります。
なお、飯塚氏によると、この「船内郵便」印は郵便箱から取り出して把束した最上部の1通に押したとのことです。とすると、この種の印を持つ郵便物は往航と復航でわずか1通ずつしか存在しないことになります。「洛陽の紙価」ならぬ「葉価」を高めていただきました。