2021年01月13日

薄絹式肉汁浸出型丸一印

インク浸出印2.jpgかなり退色したりよごれがついて見栄えの悪い菊紐枠はがきですが、右下に押されている到着印「京都局明治32年1月27日ト便」は「インク浸透式」丸一印です。ヤフオクで落札し、きょう到着しました。

このインク浸透式丸一印は片山七三雄氏によって報告されました。一いちインクを付けず、中から出るインクだけで押印する仕組が「シヤチハタ印」に似るとして、この名で呼ばれます。1888(明治21)年に導入された丸一印ですが、近年最大のトピックスとなりました。

明治から昭和期にかけて活躍した郵趣家で逓信省の役人でもあった樋畑雪湖によると、1898(明治31)年に新潟県の沢田喜内が「肉池(スタンプ台)要らず」の日付印を発明しました。樋畑は大臣の直命で採用の可否を調べ、次のようにその経緯を説明しています(『日本郵便物特殊日附印史話 附押印肉と押印能率の研究』、1938年)。
構造は普通の手押日附印に異ならざるも印軸の中枢に薄めたる印刷インキを貯蔵し、それが活字の間隙を透して押印する度毎に適度に注出され印面にはインキを平均浸潤せしむる為めと之れを調和塩梅する役目として薄絹に耐久用の薬剤を塗布したものを覆ふてある。
丸一印は局名と一体となった金属製丸枠の下部半円内に、黄楊つげや水牛角製の日付活字3、4個を植字する構造です。印には棒状の取っ手(印軸)が付いています。沢田の発明は印面直上の印軸内にインクタンクを埋め込んだことでした。重力と押印時の衝撃によって活字の間のわずかなすき間からインク(肉汁)が滲み出て印面に補給します。

これだけでは印面全体に適量のインクが行き渡らないなど補給にムラが出ます。この問題を沢田は印面を薄絹で覆うことで解決しました。滲み出たインクは薄絹の繊維の糸目を通じて均等に伸びるというアイデアです。絹の耐久性に即座に疑問が出るところですが、「薬剤の塗布」で乗り切ったようです。どんな薬剤だったのかまでは分かりません。

押印作業をすべて人力に頼っていた当時としては、確かに作業効率の上がる画期的な発明と言えるでしょう。樋畑は上記の本の中で、ほかにも多数の機械化、省力化の試みがあったことを記しています。しかし、沢田の提案は採用されませんでした。インク補給を調整出来ず、実用に耐えられなかったからです。
郵便局の窓口或は鉄道郵便車の乗務員等をして実際に使用して見たが肉汁浸出の調節が素人には思ふ様に行かぬ所から結局採用不能となった
これら樋畑の記述を実際のエンタイア上に初めて見出したのが片山氏でした。このテスト印は記述どおり明治31年末期から32年にかけて試用され、京都、名古屋、横浜局や東京横浜間の鉄道印などで相次いで見つかっています。消印カタログが書き換えられ、日附印の構造や材質に調査が進められる契機となりました。インク浸透式2.jpg

初めに示したはがきの印を拡大して観察すると、規則的な絹の織り目が印象されていることが分かります(右図)。しかし、文字以外の本来は空白であるべき部分にまで絹目が一面に出て、さらには周辺や裏面のインク汚れも目立ちます。鮮明な黒白の印影を期待できない構造的欠陥であり、確かに採用は無理でした。

ところで、メーカーによると、インク浸透印(シヤチハタ印)の最大の特徴は、印面のスポンジ状多孔質ゴムにインクを含ませられることです。「浸透」とは印材の中にインクが「浸み込んでいる」こと、あるいは印面が絶えずインクに「浸っている」状態を意味します。この多孔質ゴムの製法が特許になっているようです。

対してこの丸一印ではインクは「浸透」せず、活字間のわずかな隙間から「漏れ出る」だけです。敢えて言えば「滲出しんしゅつ」で、「浸出」も同じです。このさいGANは調査官・樋畑に敬意を払って「薄絹式肉汁浸出型丸一印」の名称を提案します。略して「薄絹浸出印」、または「薄絹印」で十分ではないでしょうか。この印の特徴を端的に表せると思います。

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2020年03月29日

この郵便物は消毒済です

消毒済1.jpg消毒済_04.jpg貼られた切手を抹消してその郵便物を引き受けたことを示す通信日付印(消印)を代表に、パクボー印や停車場印、箱場印や川支印などは引っくるめて「郵便印」と呼ばれています。料金不足や航空など取扱種別を表す印、太平洋戦争中や米軍占領期の検閲印なども、むろん郵便印とするのが郵趣家の常識です。

非常に幅広く使われている「郵便印」ですが、では郵便印とは何か、どう定義されるかは、少し難しい問題を含んでいると、GANは考えます。例えば、官公署が受取人の際によく使われる受領印、監獄の看守や女子寮の舎監が押す検閲印なども郵便印なのか。これらは定義次第で郵便印としての当否が分かれます。

似た例として消毒印の問題があります。明治、大正時代がほとんどですが、「消毒」「消毒済」などの印が押された郵便物の存在が知られています。数十年も昔、「消印とエンタイヤ」の時代から報告されていました。郵便印と認識していた人たちが一定程度はいたはずですが、最近では郵趣界で取り上げられた例を見ません。

外国のケースでは、アメリカで2001年の同時多発テロ事件の直後に炭疽菌入り郵便物によるバイオテロ事件が起き、一定の郵便物を消毒して配達しました。細菌やウイルスの知見に乏しかった明治期の日本でも、コレラやペストなどの感染症が郵便物を介して広まるのではないかと恐れました。

右上に示したはがきは水戸上町局で10月30日に引き受け、群馬県玉村に宛てられています。はがきが紙幣寮銘であること、東京局の中継印が辛うじて「一二」と読めることから明治12(1879)年の使用と確定できます。表面右中央部に「消毒済」の朱印があります。この印がどこで押されたかは不明です。

明治12年は全国でコレラが大流行した年でした。各地に次々と避病院(隔離病舎)が建てられ、大規模な消毒作業が行われたようです。これらに反対する農民が暴徒化して「コレラ一揆」まで起きたといいます。確定する資料は未見ですが、郵便の現業局所でも郵便物の消毒に当たっただろうと想像するに難くありません。

皇宮警察1.jpg皇宮警察3.jpgの封書は明治41(1908)年3月13日に沼津局で引き受けられ、裏面着印によれば京都荒神口局に翌14日に着いています。発信者は沼津御用邸、宛先は宮内省主殿(とのも)寮京都出張所です。封筒の左側中央部に二重丸型「皇宮警察/消毒」の大型朱印があり、出張所を警備する皇宮警察が消毒処置したことを示すとみられます。当時は衛生取締も警察の所管でした。
高輪御殿.jpg
これより前、明治35(1902)年に京浜地方でペストが発生し、数年間にわたって流行が続いたようです。ネズミを通じて伝染すると信じられ、駆除策として役所がネズミ捕獲を勧め、1匹5銭で買い上げたといいます。このペスト禍に関係すると考えられる記事が明治39年8月7日付「逓信公報」告知欄にありました(右図)。

東京・芝の高輪御殿宛ての郵便物は直接御殿には届けず、皇居内の宮内省消毒所に配達せよ、つまり芝局でなく麹町局に送れという指令です。当時の高輪御殿には明治天皇の皇女2人が住んでいました。皇室関係の到着郵便物はいったんすべて消毒所に回すよう宮内省の要請があり、逓信当局が特別措置をとったことが示唆されます。

話を振り出しに戻しますが、現在のGANの考えでは郵便印の定義は「郵便物の引受から配達に至る逓送中に押された、取扱に関わる一切の印章類」です。ここで示した2通の郵便物の消毒印も、名宛人が受け取った後に押された明確な証拠がない限り郵便印です。現今のコロナ禍では郵便にも被害が拡大するのでしょうか。

消毒済-1.jpg追記】(2020.05.24) 本稿は、今回のコロナ禍との関連で「確かスペイン風邪の『消毒済』エンタイアがあったはず」と貧しいコレクションを探したのがきっかけでした。それはなく、代わりに出てきた2通のエンタイアをここに記載しました。ところがつい昨日、偶然開いたシベリア出兵のアルバム中に目指す「スペイン風邪もの」を見つけました。3点目の「消毒済エンタイア」(上図)としてご紹介します。消毒済-2.jpg

民間人旅行者が北樺太のアレクサンドロフスクから発信した絵はがきです。第50野戦局で大正11(1922)年8月7日に引き受けられ、東京の宮内省文書課長に宛てられています。文面などから、発信者はあるいは宮内省の高級官僚かも知れません。はがき右側空白部に角枠「消毒濟」朱印(右図)が押されています。東京に着いて押されたのでしょう。「消毒済エンタイア」は皇室・宮内省関係に目立ちます。

スペイン風邪は1918年から世界中に広まったインフルエンザの一種です。ウイルス起因のパンデミックという点で今回の新型コロナの「大先輩」に当たります。第1次大戦に参戦した米軍兵士がヨーロッパに持ち込んだのが発端とされ、日本では1921年7月まで3回にわたる大流行のピークがあって、一説によると全世界で38万人が死んだそうです。

このはがきは国内での第3波が終わって1年後のものですが、次の流行への警戒は更に続いていたのでしょう。スペイン風邪防止のための消毒とみて間違いないと思います。

追記】(2020.07.15) 別の用件で逓信公報を調べていて、偶然に郵便物消毒の根拠らしい規定のあることに気付きました。1900年10月1日に施行された郵便法(明治33年法律第54号)に次のような条項があります。
第9条 郵便物検疫ヲ受クヘキ場合ニ於テハ他ノ物件ニ先チテ直ニ検疫ヲ受ク
前身の郵便条例時代も含めて、もしこれが適用されているのだとすると、消毒印も郵便印の一部だと言える根拠を得ることになります。その場合はこれらを一括して「消毒郵便」「検疫郵便」という名称が生まれるかも知れません。
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2019年12月31日

何のため「切手検査」?

切手検査01-2.jpg日頃は日本の郵便について大きな顔でアレコレ知ったかぶりしているGANですが、最近入手したはがきの意味不明なハンコにお手上げです。これご存じの方、どなたか教えてくださ~~い。

ドイツのヒンデンブルグ15プフェニヒ切手を貼りデュッセルドルフ局で1934年7月23日引受の絵はがきです。大阪切手検査02.jpg市東成区生野新家町(現在の生野区林寺の一帯)宛てで、表面に二重丸型紫色「切手検査/〒/東成局」という印(左図)が押されています。

戦前の郵便物に「料金検査」とか「種別検査」「量目検査」といった印はよく見るのですが、「切手検査」は初見でした。切手の何を検査したのか。ホンモノ・ニセモノでしょうか、料金が適正かどうか、でしょうか。ドイツ切手に詳しい収友の新井紀元氏によると、この時期、外国はがきの料金15プフェニヒは適正だということです。

そもそも切手の真偽や料金適合の確認を第一にすべきなのは受け付けた郵便局であり、「問題ないことを確認した上で引き受ける」ことが大原則です。それをさらに逓送ルート上の郵便局、あるいは配達局で再確認して印までも押す――。膨大な時間と手間が掛かり不合理で、あり得ないことです。

では、ある時期の外国来郵便物に限った特別措置か、それとも配達局の東成局がなにか特別な局だったのか。これも、前者は他に例がなく、後者も大阪の平凡な一市内局に過ぎないことから、無関係です。つまり、どう好意的に拡大解釈しても、東成局がこんなハンコを押す理由が見当たらないのです。

貼付切手完全確認_01.jpg貼付切手完全確認_02のコピー.jpg大勢の収友にこれを示して尋ねたところ、「『貼付切手完全確認』というハンコがあったね」と類似例(右図)を指摘されました。しかし、それは切手が完全に貼ってある(=脱落、欠損がない)ことを確認した印です。単に「目視した」に過ぎず、規準に適合するかどうかを「調べた(結果、パスした)」とは意味が違います。

戦後、外国郵便が1946年9月に再開された直後は久しぶりの外国切手が珍しくまぶしく、つい剥ぎ取ってポケットに入れる郵便職員もいたようです。こうした行為を防ぎ「到着時には既に脱落していた」と言い訳もさせないように、東京中央局などの外国郵便交換局でこの印が使われたといわれます。いずれにせよ、東成局は交換局ではありません。

最大の問題は、だれに示すためにこの印を押したのか、でしょう。なぜ東成局だけで使われたのか、もあります。はがきは逓送の最終段階の東成局に到着し、あと手にするのは配達員と受取人だけです。配達員には局内で済ませられるので、これは受取人に対する通知か注意喚起でしょうか。しかし受取人がこの印を見ても、やはり首をひねったことでしょう。

さて、東成局の「切手検査」印はだれに対し、何の目的で押されたのか。知識ある方のご助言をいただければ幸いです。
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2019年08月31日

済南「野戦」削り臨時印

済南-3.jpg田沢1銭5厘貼りの兵庫県宛て絵はがきを青島守備軍の普通郵便局、いわゆる山東局の済南で大正7(1918)年11月30日に引き受けています(左図)。ごく最近の大手オークションでの入手品です。

済南局の日付印をよく見ると、D欄がブランク(図2)です。押印の加減で櫛歯が出ないのではなく、文字通りの空白となっています。元もとD欄にあった「野戦」の2文字を人為的に削り取ったと思われます。何でこんな手のかかる細工をしたのでしょうか。

この日付の10日ほど前の11月21日、青島守備軍は管内全野戦局の半数に当たる9局を普通郵便局に改定しました。改定されたのは旧ドイツ膠州湾租借地内の青島など7局と中国が交換局として認めた済南、濰県の2局です。残りの半数は野戦局のまま残りました。

済南-1.jpg済南-2.jpg済南-5.jpg済南-4.jpg
     図1        図2         図3         図4

このうち、野戦局でなくなった済南局では、それまで使っていた日付印(図1)で局種が野戦局であることを示すD欄「野戦」の2文字を鑢(やすり)か何かで取り去った(図2)のでしょう。少し乱暴ですが、D欄を通常の櫛型にした新しい印が東京から送られてくるまでの機宜の措置だったとみられます。

済南局でこうした「臨時印」が使われた事実は、収友の加藤秀夫氏が既に2006年の全日展に出展した「青島守備軍管内局の郵便印」で発表しています。野戦局から普通局への切り替えに際してこのような臨時印が使われた例は済南局以外にまだ知られていません。野戦局から軍事局への改称時なら、高密局の例が福田真三氏らによって最近発表されています。

済南局の日付印では、上部印体が局名のみでD欄のない変形印(図3)が昔から有名です。加藤氏はこのD欄空白の臨時印は大正8年6月頃になってD欄なし変形印に切り替えられ、変形印は8月ごろまで使われたと見ておられるようです。山東局データの膨大な独自の集積が基になっています。

GANの調査では済南局でD欄櫛型の正規印(図4)が初めて出現したのは大正8年1月1日の年賀印で、臨時印、変形印と併行して使われています。これらを一連の流れとして確定するためには、さらにデータの積み重ねが必要です。
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2019年05月12日

御大喪と御大典の臨時局

武蔵横山.jpg元号が替わるの替わったのというアベ政権脚本、テレビ局主演のバカ騒ぎもようやく一段落したようです。「天皇崩御を伴わない御代みよ替わり(=改元)だから盛り上がった」。コメンテータの賢しら顔を眺めて、前々回には両方で臨時局の開設があったことを思い出しました。

前々回、つまり大正から昭和への御代替わりは、大正15年(1926)12月25日のことでした。亡くなった大正天皇の葬儀(御大喪)は昭和2年(1927)2月8日に東京で、践祚せんそした昭和天皇の即位礼(御大典)は昭和3年11月10日に京都で行われました。

大正天皇の陵墓は東京府南多摩郡横山村(現在の八王子市長房町)に新造されました。当局は造営や式典準備、参列者のため昭和2年1月23日に武蔵横山局を臨時開設し(上図)、2月15日限りで廃止しました。当時の浅川局の集配区管内で、今日の八王子横山町局とは全く無関係の局です。

武蔵横山局は2等局でしたが集配はせず、郵便物は窓口引受だけ扱いました。若干の官白が残されていますが、実逓便は聞いたこともありません。2月7、8日だけ東京、横浜との間に限定した速達取扱も行われました。もし、このエンタイアが世に出たら「超」が2、3個は付く大珍品でしょう。

京都御所内.jpg一方の御大典は大正天皇に続く昭和天皇第2皇女の服喪があって少し遅れました。昭和3年11月10日に京都市上京区の京都御所で即位礼、続いて14、15日に大嘗祭が行われています。このため御所内に11月1日から(左図)11月30日まで京都御所内局が臨時開設されました。

京都御所内局は武蔵横山局と同様に2等局で集配は扱いませんでした。開局期間中、京都市内、東京、神戸との間で速達も引き受けました。こちらは武蔵横山局のわずか2日間限りと異なり1ヵ月と比較的長いのですが、やはり速達便はまだ収集界に出現していないようです。

京都御所内局の官白はよく見る気がしますが、ほとんどは11月10日の大礼記念特印です。当時のコレクターの興味は今日と違い、大きくて華やかな特印の方にあったのかも知れません。わざわざ局を訪れても黒活印の押印を求めた人は少なかったようです。御大喪では特印は使用されませんでした。

両局の印影を比べると、時刻表示が武蔵横山局では午前0-9時のY3型なのに、京都御所内局は午前0-7時のY1型と異なっているのに気づきます。Y3型の時刻表示は午前9時から始まる3時間刻み、Y1型は午前7時からの1時間刻みです。この間に2時間刻みのY2型もあります。

これは武蔵横山局の集配を受け持つ浅川局が3等局なのに対し、京都御所内局の京都局は1等局と等級格差があるためかも知れません。つまり、その局自体は同じ2等局でも、臨時特設局の時間刻みは受け持ち集配局に倣ならうのではないかという推測です。

武蔵横山、京都御所内局ともに郵便以外に電報も扱いました。配達は局構内などごく狭い範囲だけと思われ、これらの局の日付印が押された電報送達紙の出現もまた絶望的です。為替・貯金業務は武蔵横山局では扱いましたが、京都御所内局では扱っていません。告示にはあるのですが、臨時陵墓局で為替を組んだり貯金する人など実際にいたのでしょうか。

武蔵横山 東浅川分室.jpg【追記】(2019.5.29) 収友の田中寛氏から「武蔵横山局には東浅川分室もあるよ」と教えていただき、驚きました。印影(右図)もご提供いただいたので、ご紹介します。御大喪当日2日間だけの開設だったそうです。あわてて逓信公報を見直してみましたが、この分室の開廃についての告示・通達類は見当たりませんでした。臨時特設の分室や出張所については地方逓信局報に掲載するにとどめていたようです。機会があれば当時の東京逓信局報で確認してみたいと思います。いずれにしても2日限りの臨時局分室、まことに稀少な存在です。

GANの調査では、この分室は浅川駅(現在の高尾駅)の1.1㎞東寄りに設けられた東浅川仮停車場構内に開設されたと思います。御大喪当日、大正天皇の遺骸は新宿御苑内に設けられた仮停車場から特別列車で中央線に乗り入れ、東浅川仮停車場に運ばれました。仮停車場からは甲州街道を横切る新設の広い道路を陵墓まで自動車の車列で進んだのでしょう。仮停車場自体は既に廃止されましたが、駅前広場は八王子市東浅川保健福祉センターの第2駐車場として利用されています。
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2018年10月30日

ゴム製櫛型欧文印の試行

Yokohama 1905.jpg菊4銭を貼ってフランス・ラヴェジネに宛てた絵はがきです。横浜局1905年(明治38)11月23日の黒色欧文印で引き受けられています。ヤフオクで落札し、本日到着しました。

横浜局の櫛型欧文印は日本の欧文印の中では最もありふれた存在ですが、ここでは日付が問題です。櫛型印の使用開始は1906年1月1日からが常識なので、これは1ヵ月以上も早い使用例ということになります。どういうことでしょうか。

この当時、全国の郵便局では丸一型印(東京など一部の大都市の局では丸二型印)が使われていました。これらを改良し、局種や取扱時刻を明確にする形で新形式の日付印の採用が決まりました。円形の印影内に2個の櫛歯状の文様を含むことで「櫛型印」と呼ばれます。

通達上では05年6月20日の逓信省公達第369号で櫛型印22形式の導入が予告されています。続いて、同年11月15日に局種別・使用目的別に06年1月1日から段階的に交付する旨の通牒が出されました。「護謨ゴム欧文日附印は(06年)4月1日の見込」となっています。

Yokohama 1905-2.jpg実際、外国郵便交換局や準交換局、在外局などでのゴム製櫛型欧文印の使用例はいずれも06年4月以降に認められます。しかし05年中に使われた例外があり、横浜局で10月、東京局で12月からのゴム製欧文印の早期使用例が知られています。このはがきに押されたYOKOHAMA印もその一つで、年月日を表す数字に区切りのピリオドがないのが大きな特徴です(左図)。

公表より4、5ヵ月も早い使用は、初体験となるゴム製日付印の本格的導入に先がけての試行だったと見られます。外国郵便物の取扱量が国内最多の横浜、東京局で使って、使い勝手はどうか、どのように摩耗、破損するかなどを調べ、調達数の予測などをしたのでしょう。

実は櫛型印は05年に他でも2種類が使われています。日露戦争中に満洲で開設された軍用通信所の電信印と最初期の関釜連絡航路の船内局印です。これらはいずれも櫛型印としては小型で、硬質印でした。また、横浜、東京局は明治20年代後半に丸一型ゴム印を試用したことでも知られています。

丸一印時代まで印材の主流はずっと硬質印で、水牛角や柘植つげ材が多用されました。丸二印時代以降に研究が進み、櫛型印への形式変更を機に鋳鉄製硬質印とゴム印への全面切り替えが図られます。1910年2月前後の東京局でコルク製と言われる特異な彫刻型による欧文印を試用した例もありました。この時代は当局が日付印の印材に試行錯誤した時期と言えます。

欧文日付印は結局、鋳鉄印、ゴム印ともに一長一短があり、どちらが決定版ともなりませんでした。櫛型時代が終わり、三日月型を経て丸型印と形式が移り、インク浸透式が導入された今日でも両者の併用が続いています。
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2018年09月27日

左書き櫛型印の出現時期

愛媛・中村.jpg山口.jpg新聞1面トップ記事の横見出しなど日本語を横書きする場合、「戦前=右書き、戦後=左書き」というのが現代では漠然とした常識です。郵便切手や郵便印にもこの「常識」はほぼ通用する、と考えられてきました。

郵便印(櫛型印)の場合、正確にはいつから、何を根拠として局名表記を左書きに変えたのか。必要があって郵便法令や参考書に当たり、意外な事実に気付きました。これについて従来の説明はいずれもおざなり、というよりほとんど触れられていないのです。

まず法令ですが、郵政省は1949年(昭和24)9月30日の告示第177号で、戦時・戦後期に大混乱した通信日付印の形式を櫛型印12、機械印5種類に整理し、図示しています。これにより、局名左書きで時刻入り(C欄県名や★入りを廃止)の「戦後型櫛型印」形式が10月1日から導入されました。

郵便印の専門書として最新刊の『日本郵便印ハンドブック』(2007年、日本郵趣協会)はこの告示177号を挙げて、単に「1949年から使用された」とあるだけです。『郵便消印百科事典』(2007年、鳴美)も「昭和24年から左書きの局名活字の配備が始まる」とし、早期使用例1点(中京局24.2.1)の存在を示すに止まっています。

愛媛・中村-1.jpg山口04.jpgところが、GANの知るところでは実態はもっと複雑です。右上のエンタイアで示すように、局名左書き印は告示のずっと以前から、少なくとも昭和22年(1947)1月に使われています(左図の左=愛媛・中村局)。県名の左書き印ならもっと早く、昭和21年(1946)10月の使用例があります(上図の右=山口局)。分類上では局名、県名とも左書き/右書きの組み合わせで4タイプを考える必要があるのです。

郵政省は局名を左書き表示に改めた理由を説明していません。郵趣協会や鳴美の本も同じで、根拠を求めた形跡すら見えません。GANの調査では常識的に考えられるような米軍占領下で欧米式にならって取り入れたのではありませんでした。戦前の1942年3月に文部省が主唱し、逓信省も含む主要官庁が賛同して決定された「横書統一案要綱」に淵源があります。

「国語ヲ横書ニスル場合ハ左横書ニ統一スルコト」と孔版手書きされた文部省作成の「要綱」原文が現在も国立公文書館に残されています。これが当時すぐに実行されなかった経緯は横道に逸れるので略します。左書き櫛型印の登場は、要綱の精神が敗戦を隔てて実施されていった1例と考えてよいと思います。いずれにせよこれを1949年から始まったように書いている郵趣協会や鳴美の本は事実誤認と言わざるを得ません。

日付印.jpg小包.jpg文部省の要綱案には参考資料として右横書きと左横書きが混在して紛らわしい実例8件が略図で添えられています。そのうち2件がなんと、郵便印でした。これは大変興味深く示唆的な事実です。その図版をご参考までにに掲げておきます。
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2018年01月20日

臺中丸船内軍用電信取扱所

台中丸電報.pngアジア歴史資料センター(JACAR)の日露戦争関係資料を調べていて、丸一型「臺中丸」という日付印が押された数通の電報群を見つけました。これまで報告されていないタイプの電信印のようです。

この印はすべて聯合艦隊隷下の第2艦隊司令長官宛て電報送達紙(左図)に受信印として押されています。丸一型上部は単に「臺中丸」だけで国名なし、日付下部に「電信」と入っています(下図)。下部「電信」は電信専業局所を示し、局種は電信取扱所と思われます。時期はすべて明治38年(1905)6月中です。

38年5月27日の日本海海戦で聯合艦隊はロシアのバルチック艦隊を壊滅させましたが、一部のロシア艦艇が中国の上海、厦門などに逃れました。追跡のため第2艦隊が臨時編成した「南遣枝隊」からの報告電です。ほとんどが澎湖局発信の官報で、朝鮮・鎮海湾の松真取扱所か台中丸が受信しています。

丸一型台中丸.png海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』によると、海軍は日露戦争中、対馬や朝鮮南西岸を中心に29個所の軍用電信取扱所を特設しました。このうち臺中丸取扱所だけが「船舶局」で、臺中丸が聯合艦隊の根拠地となった鎮海湾に進出した38年3月10日に開設されています。臺中丸取扱所の他はすべて「陸上局」なので、この取扱所の特異さが際立ちます。

臺中丸はもと大阪商船の優秀な貨客船(3,300t)です。海軍がチャーターし、俊足を生かして仮装巡洋艦としました。旅順陥落後は聯合艦隊直属の事実上の通信船として改装・運用されたようで、第1艦船郵便所も開設されています。電信取扱所の閉鎖時期は明記されていませんが、臺中丸の解傭が近づいて鎮海湾を去った38年7月29日と見られます。

丸一印は上欄を「国名/局名」と2段で表示するのが大原則ですが、国名がなく局名だけ表示したタイプ(国名省略型)もわずかながら知られています。郵便印としては京都と小笠原島が昔から有名でした。丸一印専集の成田真之氏は電信印で京都、神戸、兵庫、岡山と劔崎、大本営の単片上印影を発表しています(ウェブサイト「趣味の消印」)。

これらの局所が国名表示を欠く理由は色々と考えられますが、いずれも陸上の定置局です。しかし、臺中丸取扱所は船舶内の移動局なので国名がありません。丸一印時代の移動局は国名に代えて「船内郵便」「鉄道郵便」や、野戦局印では軍名を表示しました。これらのどれとも異なる臺中丸取扱所は「表示のしようがない」唯一例だったと思います。

臺中丸を含む海軍の29軍用電信取扱所の開廃について、『逓信公報』には全く記事が掲載されていません。同様に、遠藤英男、成田真之両氏の力作『電信・電話専業局所リスト』(2004年)にもありません。軍用機関として終始し、公衆通信に開放されることがなかったため、共に採録しなかったと考えられます。

これまで日本の無線電信局所の開設は海岸局の銚子無線電信局と船舶局の天洋丸無線電信局の明治41年5月16日が最初とされてきました。しかし、実際にはそれより3年も前の丸一印時代に船舶内無線電信取扱所が開設されていたのです。新たな知見が得られました。
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