2020年07月28日

新聞原稿は「業務書類」

朝日-2.jpg朝日-1.jpgの封書には支那字入り菊1銭×2枚が貼られ、普通の3銭貼りより1銭少ない。一見してありふれた第4種印刷物か第1種無封書状に見えます。ところが、表面左下部に「原稿」の筆書があります。この2文字が実はこの郵便物のミソです。

日露戦争が終わった直後の1905(明治38)年11月4日に中国・上海の日本局で引き受けられ、大阪朝日新聞社の編集局に宛てられています。差出人は「上海特派員」などの肩書きがなく個人名だけです。まだ海外支局制度がない時期の「上海通信員」の一記者なのかもしれません。

結論から先に言うと、これは手書きの新聞原稿を送った第4種郵便物だと思います。「印刷物でもない原稿がどうして第4種か」という疑問はもっともですが、第4種とは印刷物のことという「常識」は正確ではありません。当時の第4種は雑多な低料郵便物の寄せ集めでした。

1900(明治33)年10月1日から施行された郵便法第18条によると、第4種郵便物には次の6種類がありました。
 ①書籍、②印刷物、③業務用書類、④写真・書画・図、⑤商品見本・雛形、⑥博物学上の標本

第4種郵便物は料金が安く、重量30匁(112.5グラム)ごとに2銭でした。これに対して通常の有封書状の第1種料金は4匁ごとに3銭です。農業奨励のため第4種より更に安かった第5種(農産物種子)と共に、文化振興、産業奨励の政策的優遇料金として設定されました。

話を前に戻して、原稿を「業務用書類」とするには条件がありました。無封は大前提(第18条2項)ですが、内容でも特定の人宛ての通信文でなく、全部か一部を筆書した文書であること(郵便規則第25条)です。原稿を郵送するのは文化振興に当たる業務行為だったのです。

これはGANの勝手な解釈ではありません。戦前の逓信部内で広く使われた業務参考書『郵便讀本』(1935年逓信學館刊、1986年JPS復刻版)に、「(業務用書類の)例を挙げて見れば、原稿、戸籍謄本、履歴書‥‥は多く之に属するであらう。」と例示されています。

上図の封書に仮にA4判サイズの原稿20枚(かなりの長文)を入れて30匁の場合、これを第1種で送ると24銭かかります。しかし、第4種扱いならばわずか2銭です。(24銭-2銭)÷24銭=0.916、つまり第1種に対して第4種は9割引きの超低料だったことが分かります。戸籍謄本や履歴書などなら第1種有封書状としてもたいして違いはありませんが、原稿用紙数十枚に及ぶような長文の原稿は第4種扱いの恩恵を大いに蒙ったことが想像されます。

この封皮は最上部が少し切られていますが、紙縒りこよりを差した綴じ穴があり、無封は明らかです。宛先も「編集局」と企業内の部署の名で、個人間の通信ではありません。第4種郵便物のエンタイアは郵趣市場で駄物扱いですが、恐らく「原稿」は「博物学上の標本」と並んで少ないのではないかと思います。

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2017年08月25日

5倍遠回りしても鉄道便

駿河小山04.jpg静岡県小山から山梨県吉田に宛てた書状です。菊赤紫3銭を貼って小山局明治37年(1904)10月20日ハ便で引き受け、吉田局に翌21日ロ便で到着しています。最近のヤフオクで入手しました。富士山麓を四分の一周ほどめぐるだけの平凡な郵便ですが、封筒下部に「東京静岡間10月20日上り便」の鉄道郵便印がありました。これは大問題です。

小山から吉田局に逓送する場合、通常は隣の御殿場局経由で須走を経て甲駿国境の籠坂峠を越え、谷村、大月方面に至る逓送路を利用します。小山 → 御殿場 → 吉田間は50㎞足らずで、翌日配達か、便の連絡が非常によければ即日配達だって可能な距離です。

ここで蛇足をしておくと、吉田、御殿場、須走(現在は小山町の一部)はいずれも富士登山道の登り口です。受取人の刑部おさかべ氏は吉田口では知られた御師おしでした。御師とは山岳信仰「冨士講」の神職兼登山ガイド兼宿泊所経営者のことです。

東京静岡間.jpgこれに対し、東海道線に乗ったら東京まで運ばれてしまいます。東京からは現在の中央線で大月から運ぶほかありません。東海道線と中央線は共に100㎞以上あり、大月 → 吉田間を加えると合計250㎞にもなります。通常の御殿場経由ルートの5倍もの遠距離です。

そもそも200㎞も余計な大回りをした挙げ句、翌日に平然と吉田に着くことなど可能でしょうか。それとも単に誤って郵便車に乗せられただけ? 鉄郵係員が国府津駅あたりで降ろし、御殿場に逆送して通常ルートに乗ったというシナリオもあり得ます。鉄郵印が「紛来印」として使われるのも時に見られるケースです。

結論から言うと、東京回りの翌日配達は時間的に可能でした。収友の鉄道郵便専門家・児玉敏夫氏に貴重な当時の時刻表をご提供いただき、併せて「逓信公報」告知欄を日を追い調べたところ、行程時間は次のようになります。「東京静岡間」が1日に上下1便ずつしかないので時間を確定できました。(下図参照

10月20日 小山局 → 東海道線駿河小山駅18:05発(東京・静岡間上り便) → 新橋駅21:35着 → 東京局(泊)
10月21日 東京局 → 甲武鉄道飯田町駅04:50発(東京・八王子間下り1号便) → 八王子駅06:35着 → 中央線八王子駅06:45発(八王子・韮崎間下り1号便) → 大月駅08:40着 → 大月局 → 吉田局

小山吉田間逓送路.pngアリバイ成立! この書状が東海道線と中央線を経由する東京大迂回ルートで逓送されたことが確実となりました。鉄郵印は紛来印などではなく、堂々たる中継印だったのです。

すると次の問題は、なぜ通常の御殿場 → 須走ルートでなく、「逆方向」で面倒な積み替えが何度も必要となる東京 → 大月ルートが選択されたかです。「急がば廻れ」を地で行ったというのでしょうか。

当時は須走局から御殿場局へ1日2回の持ち戻り便があり、戻る須走局員の御殿場局発が04:29と14:10でした。小山局の引受印「ハ便」は恐らく夕方の時間帯でしょうから、御殿場局に回すと須走行き第2号便の出発後となる可能性があります。機転を利かせた小山局員が「逆転の発想」で、これから到着する東京行き郵便車に積み込んだのかも知れません。

しかし、実を言うとこの推測もやや危うい。書状を御殿場局に送って、そのまま1泊したにしても、翌日の須走行き第1号便で差し立てれば吉田には即日到着出来るはずだからです。

ただし、小山局の20日最終便も出た後だったら話は別です。やむなく小山局で1泊すると、今度は御殿場局未明発の非常に早い第1号便にも間に合わないかも知れない。御殿場局で第2号便まで10時間も待たされると、須走には夕方近い15:42着となってしまいます。須走局での再度の1泊を免れて籠坂峠を夕暮れに越えたとしても山麓の山梨・中野局で21日は終わりです。結局吉田へ着くのは22日となり、3日掛かりの最悪ケースも考えられるのです。

小山局のとった処置の当否は結局、「ハ便」の時間帯が実際には何時か、それは御殿場局行き最終便に間に合うのか、に依ります。今後の資料の発掘に期待しましょう。便数の極めて少ない当時の田舎の局として、ユーザーのため最善の配慮をした結果だったろうとGANは理解しています。

再び蛇足ですが、この鉄道郵便印、丸一型東京静岡間「37年10月20日上り便」は上・下便を通じて最古データを更新するもののようです。最新刊の『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)によると、最古は「38.7.17上り便」となっています。
posted by GANさん at 02:16| Comment(0) | 料金・逓送路 | 更新情報をチェックする