2020年03月31日

塘沽停戦協定の駐屯部隊

馬蘭峪-1.jpg馬蘭峪-2.jpg日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。

裏面に河北省唐山局の中継印、表面に馬蘭峪局の到着印があり、唐山を8月28日に経由して馬蘭峪に8月29日に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。日本の支那駐屯軍は条約により北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できなかったので、それではありません。

はがき宛先のアドレス「麦倉部隊」は「満洲国」の熱河省承徳や古北口に駐屯した独立歩兵第11聯隊で、「鈴木部隊」は聯隊から遠く離れた馬蘭峪へ派遣された中隊と思われます。関東軍が万里の長城南側にまで部隊を配置したのは1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定に根拠がありました。

関東軍は満州を守る部隊です。万里の長城が中国と満洲国との国境だったので、関内(長城の内側=山海関・北京・天津地域)に部隊を侵出させることは本来ならできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを画策していました。「北支(華北)分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ線を「停戦ライン」に設定しました。その北方、長城線までの区域を停戦地帯として、中国軍を停戦地帯から追いやります。引き換えに関東軍も満州国内に撤退したのですが、長城線自体は確保し続けるため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定「善後申合せ」の「付属了解事項」という秘密協定で指定されました。山海関、石門塞、建昌営、抬頭営、冷口、喜峰口、馬蘭峪、古北口の8地点です。関東軍の中国本土侵略へのクサビとなりました。後に満洲国が中国領内の山海関と古北口に郵便局を開設したのも、この秘密協定があったためでした。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠の史料となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)
posted by GANさん at 22:29
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