2020年09月26日

軍事切手貼りパクボー便

下関_01.jpg下関_02.jpg軍事切手は満州や朝鮮など軍隊駐屯地局での使用が普通ですが、の書状は内地の下関局で引き受けたパクボー(PAQUEBOT、船中投函郵便)便となっています。軍事切手のパクボー扱い使用例はこれまで未発表でした。

発信者は海軍の北支警備第14駆逐隊の駆逐艦「葵」の乗員で、昭和11(1936)年6月16日に中国の塘沽から発信しています。第14駆逐隊は関東州の旅順要港部所属部隊でした。新毛紙輪転版の軍事切手(いわゆる「旅順ゲーベル」)を貼り、6月23日に欧文SHIMONOSEKI印(右下図)で引き受けられています。カバー中央部には下関局の角枠付き赤色「PAQUEBOT」印(左下図)も押されています。

下関_06.jpg下関_04.jpg軍事切手は中国、朝鮮と満州(関東州と満鉄付属地)の駐屯部隊に支給されました。1922(大正11)年の在中国日本局の撤退と24年のシベリア・北樺太撤兵を機に中国と朝鮮での使用は終わります。さらに1931(昭和6)年の満州事変で満州に無料軍事郵便が適用されると、軍事切手適用地として残るのはわずかに関東州だけとなりました。

1932年以降は、「旅順ゲーベル」の名の通り、旅順を始めとする関東州での軍事切手使用例が陸・海軍ともよく知られています。しかし、明らかな偽造や誤用を除けば、関東州以外での使用例はありません。ただ、「旅順や大連から日本船で運ばれて内地港湾局で引き受けられたパクボー便ならあり得る」と指摘されてはいました。

今回がまさにそのパクボー便ですが、関東州からではなく、中国河北省の港湾都市・塘沽からの発信であることが意外でした。「葵」が停泊中にたまたま入港した大阪商船など天津航路(大阪-下関-塘沽間)の貨客船に託されたのでしょう。整理してみると、軍事切手貼り書状がパクボー扱いとなるのは次の4条件を同時に満たす場合に限られます。

 1、発信者は関東州に駐屯する海軍艦船部隊の水兵であること
 2、発信地は日本船が寄港する中国港湾であること
 3、発信地に日本の普通局(在外局)や軍事局がない、または利用できないこと
 4、発信時期は日中戦争開始以前であること

まず関東州の陸軍部隊は平時には満州地区を出られません。戦時に中国へ臨時出動した場合には無料軍事郵便が適用されるので、軍事切手は使いません。関東州の海軍部隊は1933(昭和8)年4月に開設された旅順要港部だけで、満州と華北の沿岸警備が主任務です。要港部には駆逐艦3隻が付属し、旅順-営口-塘沽-芝罘-青島間をパトロールしていました。

駆逐艦が寄港する5港のうち満州の旅順、営口には日本局があるので候補地から省かれます。青島からは上海に逆送して第1海軍軍用郵便所で引き受ける無料軍事郵便を利用できたので、これも除外されます。残るのは塘沽か芝罘から発信する場合に限られます。また、1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、中国沿岸全域に無料軍事郵便が適用されたので、華北海域での軍事切手使用も跡を絶ちました。

結論として、軍事切手貼り書状がパクボー扱いされる具体的なケースは、1933年4月から1937年7月までの間に旅順要港部所属の駆逐艦が塘沽か芝罘に寄航中に発信した場合に限られます。短期間の極めて特殊な使用例だったと言えるでしょう。

追記 】(2020.09.29) 「船で運ばれた郵便」専門家の伊藤則夫氏からこの書状が搭載された可能性の強い船便をご教示いただきました。大阪商船の大阪天津線月間運航予定によると、長安丸の復航「天津6月19日発、門司6月22日着」便が該当しそうです。この書状では門司局引受印が6月23日ですが、実際の航行では多少ずれがあったかも知れないとのことです。貴重な情報をご提供頂いた伊藤氏に感謝します。

なお、GANの資料では、大阪商船は1927年から長城丸(2,594t)、長安丸(2,611t)、長江丸(2,613t)の新造ジーゼル船の姉妹船3隻を天津航路に配し、大阪-天津(または塘沽)間を延べ6日がかりで2週間に3回の定期運航をしていました。1935年頃までは門司寄港、その後は下関寄航に変更されたようです。また、往航では芝罘に寄港する場合もありました。非常に稀なケースとして、1933、34年ごろ門司局欧文MOJI日付印で引き受けられた軍事切手パクボー便が存在する可能性もあります。
posted by GANさん at 02:53
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