2021年03月07日

義兵闘争鎮圧へ臨時派遣

大邱派遣隊発.jpg大邱派遣隊0.jpg日露戦争で適用されていた満州と朝鮮(韓国)での無料軍事郵便は戦後も長く続きました。廃止は1910(明治43)年のことです。

本来なら講和条約発効-部隊の撤退-軍事郵便廃止と進むべきはずでした。ところが、ロシアに代わって新たな敵、「義兵」が朝鮮で生まれました。日本軍の兵力は戦争中よりも増え、軍事郵便を続けざるを得なかったのです。

歴史用語としての義兵とは、外国の侵略に抵抗して武装蜂起した(官兵でない)朝鮮人民衆を言います。日露戦争後の日本統治に対する闘争がとくに有名で、鎮圧のため日本は撤退どころか新たな軍隊を増派しなければならなくなりました。の2点のはがきは、その派遣隊の司令部に発着したものです。

は全羅北道大邱の臨時韓国派遣隊司令部からの軍事郵便で、大邱局明治43(1910)年8月30日に引き受けられています。は逆に大邱の司令部に宛てた年賀状です。全羅南道の霊巌守備隊から菊1.5銭切手を貼って43年12月中に差し出されました。霊巌には大邱の臨時派遣歩兵第2聯隊から1個小隊が分遣されています。

同じ時期の同じ軍人なのに、なぜ8月は無料で12月は有料なのか--。43年11月末で無料軍事郵便が打ち切られ、軍事切手制度に切り替わったからです。12月1日以降は毎月2枚だけ無料で配られる軍事切手を使い、3通目からは有料となりました。従って、右のはがきは有料化された最初期使用例です。

日露戦争後、日本は韓国から外交と防衛権を奪って保護国とします。ところが、1907(明治40)年に「ハーグ密使事件」を起こした韓国皇帝を退位させ、さらに韓国軍隊を解散させると、朝鮮全土が憤激し旧兵士や農民らの義兵蜂起が相次ぎました。駐屯する韓国駐剳ちゅうさつ軍の1個師団だけでは対処できません。

日本から軍隊を逐次投入しても収まらず、ついに09年5月に臨時韓国派遣隊(渡辺水哉司令官)を編成して送り込みました。派遣隊は歩兵2個聯隊を主力とする旅団規模で、義兵闘争が特に活発な南部の大邱に司令部を置きました。駐剳軍に協力して「南韓討伐作戦」と称する徹底的な焦土作戦を行いますが、義兵は衰えません。

派遣隊は1910(明治43)年の韓国併合で「臨時朝鮮派遣隊」と名称が変わります。無料軍事郵便が廃止されたのも、併合により「戦時は終結した」との建前論のためと考えられます。しかし、義兵闘争は併合で一段と燃えさかり、派遣隊に最大の活躍が求められました。大正初期までかかってようやく鎮圧には成功します。

派遣隊のその後はよく分かりません。1919(大正8)年、竜山に第20師団が創設されて韓国駐剳軍の後身・朝鮮軍の2個師団常駐態勢が完成します。そのさいに派遣隊は解隊、吸収されたとGANは考えていました。ところが最近、春川局大正9年5月の使用例を見つけました。臨時朝鮮派遣隊が廃止されたのはいつか、その時期を明記した資料は未見です。
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この記事の作成に当たり、朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮駐剳軍歴史』(1909年)、海野福寿著『韓国併合』(1996年)を参考にしました。
posted by GANさん at 02:35
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