2021年04月01日

玉砕した拉孟守備隊から

金光部隊.jpg金光部隊_2.jpgの軍事郵便はがきは中国雲南省の拉孟らもうから発信されました。拉孟の日本軍守備隊は内陸部なのに孤立無援となり、玉砕した部隊として太平洋戦史上有名です。

発信アドレス「ビルマ派遣 龍第6739部隊」の「龍」は第56師団を表す符号であり、「6739」は野砲第56聯隊の部隊番号です。しかし、中国にいた部隊からというのに肩書きが「ビルマ派遣」とは、どういうことでしょうか。

私たちの常識ではビルマと中国とは大きく離れた別の国ですが、実は両国は内陸部の奥深くで背中合わせになっています。ビルマ東部を南北に貫流してインド洋に注ぐ大河・サルウィン河は上流では中国を流れ、怒江と呼ばれます。雲南省は怒江を西に越えてビルマ側のシャン高原上に大きく張り出しています。拉孟はシャン高原の東端、怒江を渡る恵通橋を見下ろす断崖上にあり、英領ビルマと中国とを結ぶ交通の要衝でした。

太平洋戦争初期、日本軍はビルマ側から侵攻して雲南省の「張り出し」地域を占領しました。ビルマから中国の蒋介石政権に援助物資を送り込む「最後の援蒋ルート」だったからです。日本軍は占領した北部ビルマと「張り出し」地域とを合わせて「北緬ほくめん=北部ビルマ」と呼び、第56師団を含む第33軍が守備しました。

前置きが長くなりすぎました。このはがきがなぜ拉孟守備隊からと断定できるかというと、アドレスに「金光部隊」の文字があるからです。金光恵次郎少佐は野砲56聯隊第3大隊長で、拉孟守備隊長を務めました。この大隊が拉孟守備隊の最大兵力だったからです。金光部隊とは拉孟守備隊そのものでした。

やや厚手の洋紙を切り「郵便はがき」のスタンプを押して代用はがきとしていることなどから、日用品も逼迫した1944(昭和19)年1月23日の発信と思われます。拉孟から龍稜の第301野戦郵便所第2分所まで不定期連絡便で運び出されたのでしょう。最奥地の最前線だった拉孟からの、これが最終便になったかも知れません。

拉孟守備隊の主力は本来は歩兵第113聯隊でした。1944(昭和19)年5月に拉孟と並ぶ北緬の要地だった龍稜、騰越の守備が危うくなったため同聯隊は救援に回り、野砲56聯隊第3大隊など千名前後が残されました。拉孟は翌6月から怒江を渡河した中国の雲南遠征軍第6、8軍によって攻囲されます。遠征軍は4万名を超え、米式訓練・装備の最新鋭部隊でした。

守備隊は40倍の中国軍と3ヵ月間戦い抜いた末、9月6日に金光守備隊長が戦死し、残る80人の傷病兵も翌日全滅します。この間、日本軍は拉孟に一兵も増援できず、南方総軍、ビルマ方面軍、第33軍司令官が守備隊の武勲を称える「感状」を電報で送るばかりでした。
posted by GANさん at 02:31
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