2021年01月09日

台湾郵便受取所型櫛型印

大西門.jpg菊5銭2枚貼り封書を台湾の台南大西門郵便受取所が1908年(明治41)10月7日に引き受けた書留書状です。明治末期の台湾だけで使われた特異なタイプの日付印で引き受けられています。

台湾では民政(普通)郵便を本格的に開始した直後の1896(明治29)年9月から集配を扱う1-3等郵便局とは別に、無集配の「郵便受取所」が新設されました。丸一印時代は局種による表示形式の区別はなかったのですが、明治39(1906)年10月から櫛型印に切り替わると、郵便局と受取所とでは形式が明確に分かれました(台湾総督府明治39年訓令第48号、135号)。

受取所型櫛型印の上部は櫛型がなく水平2行書きです(左図)。この時期は櫛型印が日本本土、在外局、植民地を通じ相次いで導入されましたが、このような表示形式が定められたのは台湾だけです。性格の似る満州大稲埕支局2.jpg(関東都督府管内)の出張所では、出張所名をC欄で時刻帯に代えて表示する形式でした。

台湾の受取所でこのような表示形式が採用されたのは、それまで使っていた丸一印の名残かも知れません。丸一印の上部局所名が「臺湾/臺北大稲埕」(台北局大稲埕支局)といった表示形式(右図)だったからです。すると、すぐ思い浮かぶのが「丸一印の上部印体を櫛型印に流用してはいないか」という疑問です。形式上は全く同じなので、もっともと言えます。

しかし、これについては既に水野虎杖氏が顕微鏡的な観察も加えて考察し、次のように明快に否定しています。
(受取所櫛型印の)上部印はしかし、丸一印のそれの転用ではなく、櫛型印用の印材に彫られたもの、丸一印用ならばもっと小形。(『櫛型印の形態学序論』第4巻p.78f、1972年)
なお、水野氏はこれら台湾の丸一印と初期櫛型印の上部印体(AD欄)は木や角のような印材を使った手彫りで、彫刻者も同一であったという考えも提出しています。(上掲書p.82n)

非常に示唆に富んだ台湾の受取所型日付印でしたが、1911(明治44)年一杯で姿を消します。大正に入ってからの使用例はありません。廃止を定めた告示類があるはずと筆者は考え、台湾の法令を2年間ほどにわたって捜したのですが、見当たりません。結局分かったことは、印影形式は廃止しないまま、受取所制度自体がなくなった事実でした。

台湾総督府の明治44(1911)年告示第190号によると、「45年1月21日から郵便受取所を3等郵便局に改定する」「但し郵便集配事務は扱わない」とあります。以後の3等局は集配局と無集配局とが併存することになりました。内地で先行する3等局制度に合わせたようです。

この上部2行書き櫛型印は「受取所ニ用ウルモノ」と訓令で定められていました。受取所が郵便局に変わると日付印も郵便局が使う普通の「A欄局所名/D欄櫛型」に変わります。受取所用印を使うべき局所がなくなるので、この形式を廃止する告示類は無要だったのです。

追記 】(2021.01.13) 「鉄道郵便印の備忘録」ブログのオーナー様から台湾での櫛型印導入時期は「明治39年10月から」が正しい旨のご指摘をいただきました。GANは初め、総督府訓令第48号に基づいて「39年7月から」としていました。ご指摘によりその後に訓令第135号が出て導入時期が3ヵ月遅らされた事実を知りました。このため記事中の「7月から」を「10月から」に訂正しました。

調べてみると、JPSの『日本郵便印ハンドブック』も訓令第135号の存在を知らずにGANと同じ過ちをしていました。鳴美の『郵便消印百科事典』もほぼ同様ですが、櫛型印導入で廃止されたはずの丸一印が明治39年9月まで使われている事実を指摘し、実証的です。ご教示下さった「鉄道郵便印の備忘録」オーナー様に改めて感謝します。
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2020年12月31日

華北郵政総局の貯金通帳

華北貯金簿.jpg日中戦争期に日本軍占領下の北京で日本居留民が中華郵政に預金した郵便貯金通帳(右図)を最近のヤフオクで入手しました。

中華郵政で貯金(儲金)と為替(匯業)を管理する「儲金匯業局」が製造した「郵政儲金簿」です。草色の表紙の中央に中華民国を表す青天白日章が大きくあしらわれて印象的です。表紙の内部は8枚の用紙が綴じ込まれ、貯金約款などの2枚を除く6枚12ページが帳簿部分です。

第3ページ目には通帳を発行した北京西長安街局の局名印と共に丸二箱形の儲金専用日付印(左図)が押されています。華北貯金簿3.jpg「郵政儲金/三十一年十二月二日/北京西長安街」とあり、民国31年、つまり1942(昭和17)年に発行されたことが分かります。記入された名前から預金者は北京在住の日本人と思われます。

華北貯金簿2.jpg帳簿の記入形式は当時の日本の貯金通帳とはかなり異なっています。見開いた左右2ページにわたって横書きで出納をペン書きし、職員2人の確認印が押されています(右図)。金額の記入が日本のような押印でなく手書きなので、正確を期して別の職員が確認、証明するのでしょう。

発行当日の12月2日に中国聯合準備銀行券(聯銀券)で50元を預け入れて「存伍拾元」、翌1月8日に大部分の49元を払い戻して「提肆拾玖(49)元」と記入されています。これは「何かの時の用意として念のため通帳だけ作っておく」典型的なやり方です。聯銀券1元は日本の1円と同値とされていました。

北京を含む華北占領区には日本軍の主導で1938(昭和13)年8月15日に華北郵政総局が開設されました。南京から逃れて昆明に移動した国府郵政総局の地方機関という形式をとりながらも事実上は独立した存在です。それと明記はされていませんが、この通帳も「華北郵政総局の儲金簿」ということになります。

華北郵政総局.jpgこの儲金簿表紙の右上部には大型の紫色印(左図)が押され、不鮮明ながら辛うじて「建設華北 完成大東亜戦争儲金/華北郵政総局」と読めます。日本側の要求で41年末から続けていた貯蓄推進運動「大東亜戦争完遂貯金」の宣伝スタンプです。

日本郵政は「紀元2600年」や「シンガポール陥落」などのイベントを名分に絶えず貯蓄を呼びかけました。宣伝のため貯金通帳の表紙にシールやスタンプを押したその手法が、華北にもそっくり持ち込まれた形です。

ところで、華北占領区の中国主要局ではこのような国内郵政儲金のほか、日本郵政からの委託を受けて日本の貯金業務も扱っていました(本ブログ2016年12月14日「華北郵政に貯金を委託」参照)。この預金者が北京西長安街局でも扱っていた日本貯金でなく中華儲金を選んだ理由は不明ですが、使い方から見てスペア(予備)用だったのかも知れません。
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2020年12月16日

フロレス島現地印刷葉書

フロレス葉書2.jpg南方占領地切手の珍品・稀品といえば「フロレス暫定切手」が定番の一つですが、ひょんなことから手持ちの軍事郵便はがき(左図)がそのフロレス島の同じ印刷所製だったことが特定できました。

太平洋戦争中、南方に派遣された兵士が使った軍事郵便のステーショナリー(便箋、封筒、はがきなどの紙製文具)には日本内地製のもののほか、明らかに現地製らしいものを見かけます。GANは南方現地製はがきを料額印面部のデザインによって☆系、□系、ゼロ系(☆も□もない)の3系統に分類、整理しています。

先日、収友で旧蘭印地区占領切手専門家の増山三郎氏から「オランダの南方切手グループで青木好三氏の旧著を復刻する計画がある。青木本に載っているのと同じ軍事郵便はがきを持っていないか」と照会がありました。青木氏は既に故人ですが共通の収友で、やはり南方切手の専門家でした。

幸い増山氏の要望には応じることができ、その過程で思わぬ知見も得られました。青木氏の本とは、このブログの2017年11月10日の記事「バリックパパンの櫛型印」でもご紹介した『私録じゃがたら郵便/占領中の旧蘭印での郵便』です。青木氏はこの中でフロレス島暫定切手の製造状況を詳しく調べていました。

フロレス(フローレス)島とは、インドネシアのバリ島とチモール島の間にある小スンダ列島の1小島です。青木氏によると、島には戦前からカトリック教会付属のArnoldusアーノルド印刷所があり、ジャワ島より東では最大の規模でした。日本軍占領下で暫定切手を印刷したほか日本軍兵士用の軍事郵便はがきも印刷しました。

フロレス改.jpgその使用例が同書に掲載(右図)されていたのですが、これまでGANは見過ごしていました。青木氏はこのはがきの発信者で戦時中フロレス島に駐留した川端氏本人から「アーノルド印刷所で、そこにあった用紙を利用して軍事郵便葉書を印刷した」という話を聞き取っています。このはがきの発信アドレスの2行目にある「セ五六」がフロレス島の最大都市エンデを表しています。

今回の増山氏の件で私蔵の1点がまさにこのアーノルド印刷所製と知りました。旧蘭印地区では現地製の多彩な軍事郵便はがきが使われています。今後の調査によっては、さらに他の「アーノルドはがき」「フロレスはがき」を同定できるかも知れません。

冒頭で示した私蔵のはがきは薄紅色のやや厚手用紙に赤褐色で活版印刷されています。平仮名活字がないので「はがき」を漢字で代用しているのが特徴です。発信アドレスの「セ32 セ12」は南ボルネオ・バリックパパン所在の第102海軍燃料廠を表しています。小スンダ列島は海軍の担当地区だったので、このはがきに陸軍の使用例はないと思われます。

南方現地製軍事郵便はがきは蘭印地区に限らずマライ・スマトラ、ビルマ、フィリピンなどの各地でいくつもの系統が確認できています。物資不足の内地事情を勘案した日本軍の「現地自活」策の一つでしょう。当時の日本内地では製造されていない高品位な紙質、平仮名活字「はがき」の稚拙に見える異様なフォントが最大の見分けポイントです。

日本軍占領地区で操業できた印刷所の数は限られていたはずです。今回をヒントに、南方現地製軍事郵便はがきの製造所を調べる意欲が湧いてきました。きっかけを与えてくれた増山氏に感謝!です。
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2020年12月07日

大演習部隊への特別配達

演習地配達改5).jpg日本陸軍は日露戦争前から日中戦争前までのほぼ毎年秋、「陸軍特別大演習」を実施していました。天皇が統裁したので演習地に臨時の大本営が仮設され、「特別大演習/大本営内」の櫛型印や特印が使用されたことで郵趣家にはよく知られています。

1913(大正2)年の大演習は11月12~18日に名古屋地方で実施され、第3、9、15、16師団が参加しました。右のはがきは演習地にいる京都第16師団に属する歩兵第9聯隊(大津)兵士に宛て、ごく少数で大津の兵営に残って留守を守っていた同僚兵士からの発信です。
T2演習地配達-2.jpg
はがきは大津局で大正2年11月13日に引き受けられ、宛名は「名古屋郊外のどこそこ」といった地名ではなく、所属部隊の「歩兵第9聯隊」が書かれています。これだけだと差し出した大津兵営にそのまま配達されてしまいます。そこで、右肩に赤色鉛筆で「演習地配達」(左図)の書き込みがあり、これがミソです。

特別大演習に参加中の兵士に宛て郵便を出す際、アドレスはどう書いたら良いでしょうか。演習では地名も定かでない森林原野を数日間にわたって激しく移動展開するので、場所を指定しての配達は不可能です。アドレスは部隊名として部隊本部に一括して配達し、あとは部隊内で配る方法が採られました。

1912(大正元)年度の大演習が迫っていた10月22日、逓信省は公達第124号で「陸軍特別大演習参加部隊宛郵便物取扱手続」を定めました。郵便物には「演習地で配達」する旨の表示をする、これらの郵便物は所定の集中局に集める、集中局は聯隊規模ごとに区分して配達局に送る、などの内容です。軍事郵便の配達方式を参考にしたのでしょう。

これにより、「(大)演習地配達」表記のある郵便物は、法令上の根拠を持つ特別な取扱方法に拠っていたことが分かります。このような「演習地配達郵便」をGANはこの1913年度から1936(昭和11)年度までの数例で確認しています。
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2020年11月25日

神奈川平尾前郵便受付所

平尾前-1.jpg平尾前-2.jpgのはがきに押されている日付印は中央の日付欄に「.12.9.28」とあるだけで、局名も時刻もありません。上下の印体を入れ忘れた櫛型印のようにも見えます。いったいこれは櫛型印か、それとも櫛型がないから丸二印?

差出人の住所は「横浜東神奈川渡辺山」とあります。はがきが銘付き分銅であることから、関東大震災直後の大正12(1923)年9月28日に横浜市の東神奈川から発信されたことが分かります。この一帯は被災した神奈川局の受持区域でした。神奈川局が復旧して業務を再開し、このはがきを引き受けたのでしょうか。

関東大地震の直撃を受けた横浜市は家屋が軒並み倒壊し、続発した火災で全市が壊滅しました。横浜局と市内2等局の長者町、桜木、横浜駅前、神奈川の全局が一瞬にして機能を失ってしまいます。翌日から市内郵便システムの再建が始まりましたが、断片的な記録しかなく詳しい経緯は分かっていません。

信頼できる資料の一つ、「(公報)震災彙報いほう神奈川版」第1号(臨時震災救護事務局9月11日発行)によると、まず9日までに全市を網羅する8ヵ所にテント張りなどで郵便受付所が急設されています。はがきと書状だけ受け付け、東西2方向に区分して横浜港から軍艦など船で運び出しました。関東以北は東京の品川港へ、関西方面へは静岡県清水港向けでした。

8ヵ所の郵便受付所の一つに「神奈川平尾前」があります。神奈川局職員の独身寮と見られる「合宿所」が充てられました。「平尾前」は当時の横浜市神奈川町内の小字で横浜市域の北端部でした。現在の神奈川区平川町に当たり、JR東神奈川駅の500mほど西にある神奈川工高の場所になります。はがきの発信アドレスにある「渡辺山」も神奈川町の小字のようですが、当時の地図に見当たりません。

神奈川局が復旧したのは10月後半か11月初旬と見られ、C欄「★★★」の特異な日付印を使ったことが昔からよく報告されています。その前、9月から10月半ばぐらいの間に「平尾前郵便受付所」で使われたのが、この「丸二型様日付印」だとGANは考えています。似た使用例がこの地区で複数あることが根拠です。

ただし、神奈川局が意外に早く9月下旬には再開し、復旧局で最初に使ったのがこの日付印だった可能性も残ります。8ヵ所の郵便受付所がいつまで業務を続け、廃止されたのかを明かす資料がその後の「震災彙報神奈川版」も含めて見当たらないからです。

以下はGANの推測です。--神奈川局の廃墟から焼け残った日付印の印顆と数個の日付活字が見つかりました。最寄りの平尾前受付所でこの焼け残り印が活用されます。神奈川局の業務ではないので局名欄は空白とし、1日1回だけの発送なので時刻欄も不要でした。年活字「12」がないので、前に点のある月日活字「.12」で代用しました。

このような推測を重ね、最初に示したはがきは平尾前受付所で扱われた可能性が強いと考えられます。同じ時期に焼け残り日付印を回収して使った例は他に「横浜公園内郵便受付所」でも見られます。
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2020年11月16日

縦ペア連刷の恤兵絵葉書

長大はがき-2.jpg連刷恤兵絵はがき.jpg右図は2枚のはがきを縦に置いたのではありません。これは縦長な1枚の裏表。陸軍恤兵部が太平洋戦争初期に発行した恤兵絵はがきの1種です。

恤兵部は満州事変の当初から太平洋戦争末期までの長期間に無数の恤兵絵はがきを発行しましたが、2枚続きの連刷はこれだけです。印刷所としては通常の裁断工程を1回ずつ飛ばして注意深くカットしなければならない上に、二つ折りという余計な工程も加わります。官公需とはいえ、「勘弁してくれ」と悲鳴をあげたことでしょう。

画題は「コタバル敵前上陸」で、猛烈な砲煙弾雨の中を匍匐して海岸に突進する兵士らが描かれています。作者は戦前の大衆雑誌で挿絵画家として活躍した鈴木御水。太平洋戦争開戦劈頭のマレー半島奇襲上陸作戦に題を取っています。

原画は超横長で、恐らくメートル単位の大作だったのでしょう。10センチそこらの絵はがきに収まるように縮小したら何が描かれているのかさえ分からなくなってしまいます。次善の策としてこの形が採用されたと思われます。

このような連刷絵はがきは当時同じような戦争画を多数回発行した陸軍美術協会の絵はがきにも複数回見られます。発行者の意図は美術品としての鑑賞用で、使用時に二つに切り離すことが想定されていました。実際、こういった絵はがきの使用例はほとんど全部が切り離されていて、つながったままで使われた「完全品」はまず見られません。

普通にある往復はがきの形式は2枚横並びの「横ペア」ですが、この恤兵絵はがきは「縦ペア」です。このようなはがきに郵便局はどう対処したでしょうか。郵便法令上の便宜的措置として第1種の封書並みに扱われました。これが有料郵便だったら当時のはがき料金2銭切手1枚だけではアウトですが、封書料金4銭が貼られていればOK、となったはずです。

一方、無料の軍事郵便では取扱種類が「第1種:書状、第2種:郵便葉書」などと厳しく制限されていました。「葉書状のものの縦ペア」は第2種と言えず、もちろん書状でもない。違反郵便物ですが、まさか第1種封書料金の2倍、8銭もの未納料金を受取人から徴収するのも忍び難い。未納印や付箋の形跡などは見当たらず、「便宜有効」とされたのでしょう。

ところで、この恤兵絵はがきの発信アドレス「第1642部隊」は中国・長江沿岸の九江陸軍病院を表します。病院勤務の衛生兵が今は内地に帰還している元従軍看護婦に宛てて発信したようです。病院内外の変化を1年ぶりの通信で綴ったため長文となりました。あるいはこの当時、はがきの発信だけが許され、封書は禁止されていたのかも知れません。
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2020年11月05日

自社製の船内郵便日付印

36共同丸_01.jpg36共同丸_02.jpg「船内郵便/5.8.4/第三十六共同丸」の青印が下部中央に押されたはがきです。船内郵便印に丸二型(あるいは変形櫛型)もあったのか、これは新発見! ではなく、船会社の自家製「郵便印」です。

このはがきは阿波国共同汽船会社所属の貨客船「第36共同丸」で大連-青島線に乗務する船員が発信しました。大連局機械印で昭和5(1930)年8月4日に引き受けられています。通信文には世界大恐慌の中での海運不況に加えて中国銀貨暴落のダブルパンチなど興味深い内容に溢れていますが、それらは省略します。

この船員は復航最終日の8月4日、大連に入港する当日に船内郵便箱に投函したのでしょう。もちろん、船内郵便局が開設されていたわけではありません。入港後に担当事務員が開函し、航行中に船内で投函された郵便物全部にこの日付印を押して大連局に直接持ち込んだと考えられます。このため大連局ではPAQUEBOT印や「船内郵便」印を押していません。

発信者としては上陸後に港内のポストまで行くより船内で投函した方が便利で、結果的にも大連局に早く運ばれることを知っていたのでしょう。会社の経営状況などの詳細な内幕を述べる通信文のニュアンスから、船長や事務長クラスの幹部ではないかと思います。

阿波国共同汽船-1.jpg明治期に徳島県の藍玉業者らが徳島-大阪航路を共同運航するために設立した会社が阿波国共同汽船のルーツです。四国内の鉄道事業や朝鮮西岸・満州・華北航路にも進出するなど隆盛しました。昭和12(1937)年の同社絵はがきには大阪-小松島線など内航6線、大連-芝罘線など外航5線の定期航路が描かれています(右図)。

阿波国共同汽船が扱った「船内郵便」印については、大昔の『消印とエンタイヤ』誌に別の共同丸の日付印が発表されています。今回その記事を求めて大捜索しましたが、結局見つかりませんでした。記憶ではこれより大型で左書きの印だったような印象がありますが、半世紀以上も前のことで定かではありません。

この時代に大連局で引き受けられた船内郵便については、縦書き明朝体「船内郵便」印などがよく知られ、詳細を究めた稲葉良一氏の展示作品「大連局の船内投函郵便印」(2007年)もあります。船会社の「私印」ではありますが、今回のような印も船内郵便印の一種として扱うべきだとGANは考えています。

16共同丸.jpg追記 】(2020.11.08)この記事を見た畏友・飯塚博正氏から有益な情報をご提供頂きました。それにより同種印が掲載された『消とエ』は第13巻第2号(1955年)と分かりました。大阪の小林芳一氏所蔵の中国ジャンク官葉に丸二型左書きで「第十六共同丸/7.7.22/船内郵便」の紫色ゴム印が押されています(右図)。

このはがきは青島の在留邦人から大阪の製薬会社宛てで、大連局欧文印で引き受けられています。発信者は青島入港中のこの船を訪ねて船員に託し、復航便の船内郵便箱に投函されたのでしょう。青島からの発信として、考えられる最速の逓送路に載ったことになります。

なお、飯塚氏によると、この「船内郵便」印は郵便箱から取り出して把束した最上部の1通に押したとのことです。とすると、この種の印を持つ郵便物は往航と復航でわずか1通ずつしか存在しないことになります。「洛陽の紙価」ならぬ「葉価」を高めていただきました。
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2020年10月20日

日独戦恤兵絵葉書に新種

新規-1.jpg日独戦争(第1次大戦)の際の恤兵絵はがきはこれまで陸軍大臣官房が発行した袋入り3種1組だけが知られていましたが、1世紀以上も経った今になって新種が出現しました。右図は今日届いたばかりのヤフオク落札品です。

絵面は提灯行列する群衆が主題で、上部左右に逓信省庁舎と皇居二重橋の写新規-2.jpg真を配しています。上部中央には月桂樹のリースを首にかけ翼を広げた金色の鷲が描かれてもいます。発行趣旨を表すような文字はありませんが、全体として戦勝を祝賀するような華やかな雰囲気です。

表面(宛名面)は洋風の横型です。日露戦争から太平洋戦争までの長期にわたって多種多様な恤兵はがきが発行されていますが、宛名面横型は他に例を見ません。切手貼付位置の角枠内に「恤兵はかき」、下部と左端に英文で次のような印刷があります。いずれも青色です。

ISSUED FROM THE RELIEF FUND BY THE I.J.WAR-MINISTER'S SECRITARIATE.
Printed by Toppan Printing Co.

「恤兵寄金により日本帝国陸軍大臣官房発行」「凸版印刷会社印刷」のような意味でしょうか。横書きに弱いGANには「FROM」と「BY」の関係をうまく訳出できません。絵面は写真を組み合わせた金色を含む多色印刷にエンボスを施し、大変手の込んだ作りです。明治末期から大正中期(震災前)に盛行した典型的な様式に見えます。

このような様式などから日独戦争時に発行された恤兵絵はがきと考えられます。補強する材料として、既に知られている日独戦争の恤兵絵はがきと同じ写真が今回の絵はがきにも使われていることを指摘します。

既知-1.jpgに示すのは既知の恤兵絵はがきの一種で、右上方の皇居二重橋の写真が今回のものと全く同じです。この既知のはがきは表面に日本語で「郵便はかき」「軍事郵便」「恤兵 陸軍大臣官房 凸版印刷株式會社印行」などと青色で印刷されています。複数の使用例があり、日独戦争の恤兵絵はがきと分かっています。

飛躍しますが、今回の絵はがきには英文が使われる一方で「郵便はがき」の表示がありません。この表記は内国第2種郵便物(はがき)には必須の要件でした。更に、日本のデザインとしてはなじみの薄い鷲が大きくあしらわれています。これらから、同盟国の英軍兵士用に提供されたものかとも考えられます。

今回の絵はがきの発行時期は二通りが想定されます。第1は既知の恤兵絵はがきに先行する初期の製造。既知の絵はがきはそれに続くシベリア出兵の恤兵絵はがきと形式が同じです。それらに先立つ試行的な作品という考えです。第2は逆に、既知の絵はがきの後の製造。図案がいかにも戦争に勝ち、それを祝うというテーマだからです。この場合は先述した英軍との関係が想起されます。

現段階ではどちらとも決めかねます。1種だけの単独発行とは考えられず、別図案の絵はがきやそれらの袋、実際の使用例などが出現するのを待って、更に考えたいと思います。
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2020年10月13日

北支有事へ朝鮮軍先遣隊

大邱-1.jpg大邱-2.jpg朝鮮の釜山局で昭和12(1937)年7月27日に引き受けられた軍事郵便です。普通、釜山局消印の軍事郵便は内地で動員されて大陸へ派遣途中の部隊からと決まっています。しかし、この書状はアドレスにより朝鮮内の大邱の部隊からなので、事情が一変します。

37年7月7日に起きた盧溝橋事件は日中戦争への引き金として知られますが、当初は偶発事件とされ、「北支(華北)事変」と呼ばれました。現地の支那駐屯軍と中国側との交渉で事実上は収拾されていたのです。それが陸軍内「拡大派」の策謀で近衛内閣が7月27日に内地3個師団を送る閣議決定をしたため、本格的な戦争に発展してしまいました。

--おおかたの通俗的解説書ではこのように説明されています。しかし、陸軍にはかねて「北支有事」が起きたら関東軍と朝鮮軍から各1個師団を応急派兵する計画があり、それが半ば自動的に発動されてしまいました。内地師団の動員当日にはすでに先遣隊が北平(北京)地区で中国軍に総攻撃を仕掛けていたのです。

先遣隊として朝鮮軍はまず7月13日に第20師団(竜山)を動員し、関東軍も派遣のための独立混成旅団2個を新編成しました。20師団は歩兵4個聯隊と騎兵、野砲兵聯隊が主力で、19日までに天津に集結しています。その部隊の1つが大邱駐屯の歩兵第80聯隊でした。先の書状の発信アドレス「大邱歩八〇」が、まさにそれです。

日中戦争では37年8月2日付逓信省告示第2226号で軍事郵便が正式に開始されました。注目すべきなのは、この書状が軍事郵便適用1週間前の7月25日に発信されていることです。先遣部隊の郵便は8月2日の前日までは有料のはずですが、この書状により実際には無料軍事郵便が先取り実施されていたことが分かりました。

8月以降の動員部隊の軍事郵便発信アドレスは「北支派遣〇〇部隊」と部隊長名で表記されるのが普通です。この書状には派遣方面がなく、直後から禁止される正式な部隊名(歩兵第80聯隊)を表記しているのが大きな特徴です。天津地区から戻る陸軍輸送船に搭載されて釜山に運ばれたと見られます。日中戦争の軍事郵便として最初期使用例になります。

発信者が所属する「山本部隊」は不明です。歩80「気付」とあるので80聯隊を構成する大隊や中隊名などではなく、動員に当たり聯隊に配属された小部隊を表すようです。なお、発・受信者は戦前・戦後にわたって活躍した高名な収集家兼ディーラー父子と見られますが、郵便史的には無関係です。
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2020年10月08日

安着を知らせた南方電報

彼南_01.jpg白紙にタイプ印字されただけの、ごくありふれた電報送達紙ですが、2行目に「ペナン」とあります。太平洋戦争中に日本陸軍が占領し、海軍も根拠地としていたマライ半島西岸の大都市・ペナンから発信された電報です。最近のヤフオクで入手しました。

南方占領地との公衆電報は1942(昭和17)年7月1日にジャワ(第16軍の軍政地)と、同15日にマライ・スマトラ(第25軍の軍政地)との間で始まったのが最初です。国策会社の国際電気通信に業務委託し、陸軍の軍用電信網を利用して開設されました。取扱地はビルマからニューギニア(マノクワリ)まで陸海軍占領地のほぼ全域の都市に及びました。

占領地との電報は従来の内国電報、外国電報、東亜電報(満州、中国などとの間)とは別の第4の電報系として、昭和17年逓信省令第78号により「帝国占領南方諸地域トノ間ニ発著スル電報」の名で新設されました。逓信部内でもとくに略称はなかったようですが、GANは単純に「南方電報」と呼ぶことにしています。

南方電報の料金は宛先の距離によって異なりますが、マライ宛ての場合の基本料金は片仮名5字で2円40銭、以後5字ごとに80銭増しでした。当時の内国電報基本料金は15字40銭だったので、電文15字で比べると40銭対4円=10倍と高額です。現地発内地宛てもこのような料金設定と考えられます。利用者は進出企業幹部や軍高官、報道関係者など極めて限られていたでしょう。軍用電報、報道電報と官報は私報より安く設定されていました。

南方占領地では日本軍軍政下の電信局(または郵便局)が地域内電報と共に取り扱いました。現地で配達された南方電報はこれまで未発表のようです。送達紙の形式やどのような日付印が押されていたのかに興味があります。

最初に戻って、この電報は1944(昭和19)年6月17日に東京・荻窪局が配達しています。電報には7行に渡って漢数字と片仮名の文字列が印字されています。1行目「三四七」の意味は不明ですが、荻窪局が扱った電報としての通し番号のようです。以下を解読してみます。

彼南_02.jpg2行目(左図)がデータとしては最も重要です。15日の午後1時にペナン局第34号電報として受け付けられたことを示すと見られます。3から5行目は宛先、最終の7行目は荻窪局で17日午後7時58分に「タ」職員が受信したことを示すのでしょう。ペナンから昭南中央(シンガポール)電信局、東京中央電信局を経由して2日と7時間ほどで荻窪に配達されたことになります。

電報の6行目が本文で、「ミナブジカコチラゲンキヨ(皆無事か。こちら元気)」とあります。最後の「ヨ」は発信者名です。ペナンに赴任した商社員か軍政要員などから留守宅への「安着通知」だったのかも知れません。全文15字なので、前述したように4円相当の電報料が支払われたはずです。発信者はあるいは内地電報と同じと誤解して、「基本料金」の15字に収めた可能性があります。

太平洋戦争中は軍公用以外に航空郵便は利用できませんでした。44年半ばともなると、軍事郵便と民政郵便(軍政下での一般公衆郵便)とを問わず、南方占領地と内地との郵便連絡は途絶寸前の状態です。高額料金にさえ目をつむれば、南方電報の利用が最も速く確実な、無二の手段でした。

 【本稿執筆に当たっては逓信省・国際電気通信会社編『南方通信早わかり』(1942年10月
  刊)を参照しました。】
posted by GANさん at 01:54| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする