2020年09月26日

軍事切手貼りパクボー便

下関_01.jpg下関_02.jpg軍事切手は満州や朝鮮など軍隊駐屯地局での使用が普通ですが、の書状は内地の下関局で引き受けたパクボー(PAQUEBOT、船中投函郵便)便となっています。軍事切手のパクボー扱い使用例はこれまで未発表でした。

発信者は海軍の北支警備第14駆逐隊の駆逐艦「葵」の乗員で、昭和11(1936)年6月16日に中国の塘沽から発信しています。第14駆逐隊は関東州の旅順要港部所属部隊でした。新毛紙輪転版の軍事切手(いわゆる「旅順ゲーベル」)を貼り、6月23日に欧文SHIMONOSEKI印(右下図)で引き受けられています。カバー中央部には下関局の角枠付き赤色「PAQUEBOT」印(左下図)も押されています。

下関_06.jpg下関_04.jpg軍事切手は中国、朝鮮と満州(関東州と満鉄付属地)の駐屯部隊に支給されました。1922(大正11)年の在中国日本局の撤退と24年のシベリア・北樺太撤兵を機に中国と朝鮮での使用は終わります。さらに1931(昭和6)年の満州事変で満州に無料軍事郵便が適用されると、軍事切手適用地として残るのはわずかに関東州だけとなりました。

1932年以降は、「旅順ゲーベル」の名の通り、旅順を始めとする関東州での軍事切手使用例が陸・海軍ともよく知られています。しかし、明らかな偽造や誤用を除けば、関東州以外での使用例はありません。ただ、「旅順や大連から日本船で運ばれて内地港湾局で引き受けられたパクボー便ならあり得る」と指摘されてはいました。

今回がまさにそのパクボー便ですが、関東州からではなく、中国河北省の港湾都市・塘沽からの発信であることが意外でした。「葵」が停泊中にたまたま入港した大阪商船など天津航路(大阪-下関-塘沽間)の貨客船に託されたのでしょう。整理してみると、軍事切手貼り書状がパクボー扱いとなるのは次の4条件を同時に満たす場合に限られます。

 1、発信者は関東州に駐屯する海軍艦船部隊の水兵であること
 2、発信地は日本船が寄港する中国港湾であること
 3、発信地に日本の普通局(在外局)や軍事局がない、または利用できないこと
 4、発信時期は日中戦争開始以前であること

まず関東州の陸軍部隊は平時には満州地区を出られません。戦時に中国へ臨時出動した場合には無料軍事郵便が適用されるので、軍事切手は使いません。関東州の海軍部隊は1933(昭和8)年4月に開設された旅順要港部だけで、満州と華北の沿岸警備が主任務です。要港部には駆逐艦3隻が付属し、旅順-営口-塘沽-芝罘-青島間をパトロールしていました。

駆逐艦が寄港する5港のうち満州の旅順、営口には日本局があるので候補地から省かれます。青島からは上海に逆送して第1海軍軍用郵便所で引き受ける無料軍事郵便を利用できたので、これも除外されます。残るのは塘沽か芝罘から発信する場合に限られます。また、1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、中国沿岸全域に無料軍事郵便が適用されたので、華北海域での軍事切手使用も跡を絶ちました。

結論として、軍事切手貼り書状がパクボー扱いされる具体的なケースは、1933年4月から1937年7月までの間に旅順要港部所属の駆逐艦が塘沽か芝罘に寄航中に発信した場合に限られます。短期間の極めて特殊な使用例だったと言えるでしょう。

追記 】(2020.09.29) 「船で運ばれた郵便」専門家の伊藤則夫氏からこの書状が搭載された可能性の強い船便をご教示いただきました。大阪商船の大阪天津線月間運航予定によると、長安丸の復航「天津6月19日発、門司6月22日着」便が該当しそうです。この書状では門司局引受印が6月23日ですが、実際の航行では多少ずれがあったかも知れないとのことです。貴重な情報をご提供頂いた伊藤氏に感謝します。

なお、GANの資料では、大阪商船は1927年から長城丸(2,594t)、長安丸(2,611t)、長江丸(2,613t)の新造ジーゼル船の姉妹船3隻を天津航路に配し、大阪-天津(または塘沽)間を延べ6日がかりで2週間に3回の定期運航をしていました。1935年頃までは門司寄港、その後は下関寄航に変更されたようです。また、往航では芝罘に寄港する場合もありました。非常に稀なケースとして、1933、34年ごろ門司局欧文MOJI日付印で引き受けられた軍事切手パクボー便が存在する可能性もあります。
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2020年09月14日

戦争を経済的に総括する

収支報告.jpgこの夏、『太平洋戦争の収支決算報告』(右図=青山誠著、彩図社、\1,300)という本が出版されました。新聞広告で知って一も二もなく購入しましたが、全くの期待外れでした。

タイトルに「収支」とありますが、「支出」に当たる経費・損害ばかりが書かれ、「収入」に関する論及がありません。当然の結果として差引決算など出来るはずもない。「羊の頭を見せて狗(いぬ)の肉を売る」の類いの商法です。このような題名を付けた著者・出版社は恥を知り天下に謝すべきです。

明治以来の近代日本が何度となく繰り返した戦争が「割に合う」ものだったかどうかは、台湾、朝鮮など植民地経営の「損得勘定」と合わせて昔からGANの関心を強く引くところでした。倫理や政治からでは定量的な分析は出来ません。しかし、経済学や会計学の方法の「戦争事業」「植民地経営」への適用は可能だと思うのです。

日中・太平洋戦争の軍事費に関する報告は既に大蔵省が国家財政の立場から出しています。しかし、戦後4半世紀を経てほぼ確定しかけている史実を踏まえて経済視座からの総合的な戦争分析はまだ見ないように思います。歴史学と経済学との協同作業が必要でしょう。結論は不明ですが、「収支相償わない」ように予想します。

元に戻って、この本は戦費、人命と財産上の損害、喪失した植民地・占領地の価値、戦後賠償の4点を中心に書かれています。いずれも「こういうこともある」と示す程度で、新たなデータを発掘してきたわけではなく、著者独自の視点や分析も見当たりません。ほとんどが既刊の2次資料の引用です。

良いところを強いて挙げれば、分かりやすい言葉で書かれていることでしょうか。予想に反して難しい会計用語や財政・金融論などはまったく出てきません。スラスラと読み進められるのですが、逆に言うと、心に引っかからない、頭に残らないということでもあります。経済的分析能力や歴史観の問題かと思われます。

本書とやや近い発想の関連書として、既に『臨時軍事費特別会計』(鈴木晟著、講談社、\2,000)が出ています。力作です。関心のある方にGANはこちらをお奨めします。

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2020年09月10日

英軍兵士からタバコ礼状

OAS.jpg第1次大戦中に英軍兵士から日本に宛てた軍事郵便を最近のネットオークションで入手しました。まったくの外国であるイギリスから届いた無料軍事郵便というのは初見です。

このはがき()は横型で、日本の官製はがきよりひと回りほど小型の7.5×14.2センチOAS-2.jpgです。表面に「ON ACTIVE SERVICE」「軍事郵便」、裏面(、縦型)に日本海軍の軍艦旗などが和英両文で印刷されています。表面左側に印刷された通信文は明らかに日本人が作った文章です。日本大使館などの協力も得てロンドンで活版印刷されたようです。

「ON ACTIVE SERVICE」は、直訳すると「軍事(戦闘)行動中」といった意味で、英軍と印、濠、加など英連邦軍ではこれを郵便物上に記すと「軍事郵便(無料)」と同義になるようです。米軍も記す場合は単に「FREE」とか「SOLDIER'S MAIL」などで、英文「FIELD POST」の軍事郵便物は見ません。

このはがきは1917(大正6)年5月13日に西部戦線の英第6野戦局(在フランス)で引き受けられ、縦楕円形赤色印で検閲を受けています。差出人の所属部隊は記入禁止でした。タイプ印書された受取人は東京の亀井伯爵夫人です。亀井家は旧幕時代の石見国津和野藩主でした。紫色鉛筆による漢字宛先は東京局外国郵便課に到着後、配達用に記入されたとみられます。

はがきの表裏に印刷、印字されている和英両文の説明などから推測すると、この軍事郵便は次のような多くの経過をたどったことになります。

 ① 日本の篤志家が英軍当局または直接イギリス海外倶楽部(クラブ)に寄付金を贈る。
 ② クラブは日本など海外からの寄付金を原資として「タバコ基金」を開設する。
 ③ クラブは和英文ではがきを作製し、日本の篤志家の宛先と名前をタイプ印書する。
 ④ クラブは基金を使ってタバコを購入し、はがきを同封して小包で前線に送る。
 ⑤ タバコ小包を受け取った兵士ははがきに礼状を書き、軍事郵便として発信する。
 ⑥ 英軍当局がはがきをとりまとめ、日本宛軍事郵便として発送する。
 ⑦ 日本郵政がはがきを宛先の篤志家に無料配達する。
 ⑧ 篤志家は自分の寄金が有効に使われたことを知る。

英軍タバコ.jpgイギリスの収友Ken Clarkさんによると、当時、前線の英軍兵士にタバコを送ることは大変広く行われました。受け取った兵士が一種の「受領証」として送り主に礼状を軍事郵便で返すことも一般的だったようです。イギリスにはその「タバコ礼状」を紹介する専門のネットサイトまで開設されています。に示すのは礼状の一例です。
https://www.worldwar1postcards.com/smokes-for-the-troops.phpより)

ところで、日英両国とも加入している万国郵便連合(UPU)条約は加盟国の郵便物を互いに逓送し合う義務を課しています。しかし、「通信事務」以外の無料郵便物についてはこの義務はありません。つまり、無料の軍事郵便は国際郵便物として扱えないのです。日本の軍事郵便制度でも国際郵便は対象外でした。

UPU条約では扱えないはずのイギリス軍事郵便がどうやって日本まで逓送されたのか、また日本郵政がこのはがきを「未納」扱いせず有効として宛先に配達した根拠は何か。--大きなナゾの残る郵便物ですが、この解明は別の機会にしたいと思います。
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2020年08月29日

郵研時代の思い出を発掘

終活を兼ねて身辺整理をしていたら、写真がポツンと1枚出てきました。学生が大勢写っていて、裏に「(昭和)35年度春期郵研総会 35.5.7 山上食堂にて」とあります。むかし大学郵研にいて、キャンパス内の食堂でこの会場作りを手伝った記憶が一気に蘇りました。

切手研3.jpg

GANが東京の大学に入って真っ先に訪ねたのが郵便切手研究会の部室でした。高校時代は地元の郵趣会に入っていたので、「ビードロ、まりつきの世界にドップリとはまれる」と勇んだのです。入会手続は無事済ませたはずですが、その後がもういけません。いつ部室に行っても、だれもいないのです。

1年生の教養課程は本部キャンパスとは別だったので、そうそう毎日通ったわけでもないのですが、とにかくだれとも会わない。いや、正確には時に一人だけいました。あんパンみたいな学帽をかぶった新入生同士です。今は名前も忘れましたが、よく同じバスで帰りました。魚籃坂(ぎょらんざか)下のバス停で乗り、彼は柿の木坂、GANは自由ケ丘で降りていました。

バスの終点は等々力(とどろき)だったので、世田谷局等々力分室に行って速達の実逓便でも作っておけばよかったと、今なら思います。当時は等々力に分室があることも、「エンタイア」という言葉さえ知りません。何の活動もないまま退会しました。といっても、ただ部室に行かなくなっただけのことですが。

60年安保闘争が最高潮の「政治の季節」でした。連日のように行われた国会包囲デモに、ノンポリ(政治無関心層)学生のGANもよく参加しました。「安保! 粉砕!」「岸を! 倒せ!」。最近辞めた首相のトラウマにもなったようですが、彼の祖父(当時の首相)を引きずり降ろす何万、何十万人ものシュプレヒコールで議事堂を震わせました。

登校はしても、各クラスで「デモ参加のため今日は授業放棄」と決議し、ぞろぞろと霞ヶ関に向かうのが日常風景でした。郵研が空白状態だったのも、今から考えると当然だったのかも知れません。これとは真逆に、丹下、児玉、山崎、小林氏らを輩出して大学郵研が黄金時代を迎えるのは1世代後のことです。

改めて写真を見返すと、講師にお迎えした三井先生(三井高陽元教授、切手研究会会長)を中心に、まだ初々しいGANも含めて学生20人ばかりと、OBらしい背広姿の数人も写っています。そして何と、先生の右側に一番弟子然と構えているOBは荻原海一氏ではありませんか。60年も経って初めて気が付きました。

荻原氏は既にドイツ建物切手で注目の若手収集家だったはずですが、むろんGANはそんなこと知らず、同席した認識さえないのです。奇縁で知り合い、同分野での無二の収友となったのは、写真から4半世紀ほど過ぎてからのことでした。1枚の写真が思わぬ過去を発掘してくれました。本人に伝え興じ合う術の、今はないことばかりが残念です。

(荻原氏については、本ブログ2016年9月9日「荻原海一さんを悼む」をご参照下さい。)
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2020年08月26日

軍事小包は公用? 私用?

シベリア軍事小包.jpg小包郵便物の引受を証明する郵便物受領証です。シベリア出兵時に満洲里に開設された第7野戦局で大正8(1919)年8月20日に引き受けられました。「測量手」から武市野戦局気付で個人に宛てています。

宛先の「武市」とはロシア黒竜州の州都・ブラゴベシチェンスクのことです。明治以来多かった在留邦人の間でこう略称されていました。シベリア出兵では第12野戦局が開設されました。つまり、この小包は第7野戦局から第12野戦局への戦地間小包です。

シベリア出兵では軍事小包郵便も扱われましたが、公用に限られ、私用は扱いませんでした。根拠は次の告示です。 
大正8年3月25日 逓信省告示第374号 (前略)当分ノ内山東、北満州及西比利亜(シベリア)方面ニ
付テハ私用小包郵便物ノ取扱ヲ為サス
一般に戦地からの公用小包は無料ですが、私用の場合は有料で、差出も極度に制限されていました。戦地からの私用小包の必要性はあまり考えられません。もし認めると、略奪品や横領品の輸送など不穏な目的に悪用される恐れさえあります。

この受領証に「公用」印はありませんが、「郵便料」欄が空欄で、無料だったことを示しています。「公用」表示がなければ一般的には私用ですが、無料であることは公用として扱ったことを示唆します。

仮に私用小包が許されたとして、受領証に書かれている500匁(約1.8kg)の小包を日本本土(内地)に送るには料金24銭が必要です。しかし、戦地発戦地宛てと発着が戦地間で完結する場合の料金は想定されていませんでした。さて、この小包は公用か、それとも「戦地間小包」として特例で私用でも無料とされたのか--。

この小包を発送した「測量手」は満洲里の兵站宿舎をアドレスとしています。シベリアや北満州派遣軍の所属ではなく、陸軍参謀本部陸地測量部の専門技術者(技手)でしょう。軍用地図作成のため東京から臨時派遣された測図班の一員と見られます。推測ですが、受取人も陸地測量部の同僚で、測量用器具の部品でも送ったのかも知れません。

戦地発公用小包の発送条件を明示した資料は未見ですが、原則は個人名でなく軍衙・部隊名による発送に限定されていたようです。軍衙や部隊からではないが、内容物や送付目的から私用でないことが明らかな場合も、公用に準ずるとして野戦局の判断で便宜的に受け付けることもあったことが考えられます。

結論として、この小包郵便はやはり私用ではなく、公用と考えられます。野戦局で扱う小包はすべて公用のため、敢えて「公用」印は押す必要がなかったのでしょう。軍衙・部隊からではなくその派遣員個人の発送だったため、この受領証は処分されずに残りました。シベリア出兵で軍事小包郵便が扱われたことを示す貴重な資料と思います。
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2020年08月14日

日本郵政扱い連合軍郵便

連合軍郵便_01.jpg今年、2020年は米軍が広島と長崎に原爆を投下して75年の節目の年でした。8月6、9日に開かれた両市での平和祈念式典でアベ首相が式辞を読み上げました。核廃絶に触れず、例年と一言一句同じ内容が、「お粗末すぎる」「恥ずかしくないの?」と厳しく指弾されています。

でも、GANには彼の気持ちがよく理解できるのです。「日本はアメリカの『核の傘』で守られている。核は必要だ」。たとえ10万人単位で父祖の命を奪われた両市の市民が目の前にいても、核廃絶の誓いなどするものか--。今こそすべての日本国民に告げます。我らがアベちゃんに「深く寄り添って、真摯に、しっかりと、」彼の真情を忖度すべきです。

現代の新型コロナの何千、何万倍にも勝る原爆の大惨禍を受けて無条件降伏した日本は、アメリカを主体とする連合国軍に占領されました。日本中に開設された米軍野戦局を経由して、米軍の軍事郵便やアメリカ内国料金分のアメリカ切手が貼られた郵便物が日米間と日本国内を自由に往復しました。日本がアメリカの郵政区域に組み込まれたことになります。

米占領軍発着郵便物の日本国内での引受、逓送と米軍基地内宛て以外の配達は日本郵政が担当しました。米軍発の公用郵便は原則として無料扱いです。書留、速達など特殊取扱料金までもが無料でした。これらの郵便物を郵政当局は「連合軍郵便」と呼び、部内には「日本郵便とは料金など取扱が違う」として「格段の配意」を指示しました。

連合軍郵便_02.jpg上のカバーは連合軍郵便の一例です。愛媛県松山市の米軍第2地区民事検閲局b分局(CCD松山)から書留・配達証明・速達郵便として発信されました。松山局では書留番号印だけ押して引受日付印は押し漏らしましたが、宛先地の宇和島局で昭和23(1948)年3月20日の配達印が押されています。

公用なので書状料金とすべての特殊取扱料金は無料となり、切手がまったく貼られていません。それでも未納ではないことを示すため、枠なし楷書体の「連合軍郵便」赤色印(右図)が封皮の右側に押されています。この印は米軍との郵便交換局(引受局)で押すように定められていたので、これは松山局の印です。

「連合軍郵便」印は荻原海一氏らによってこれまでに東京中央、横浜、広島駅前など8局が発表されていますが、局ごとにすべてタイプが異なります。交換局には米軍基地・施設所在地の延べ16局が指定されました。うち名古屋、佐世保、札幌局など少なくとも9局が未発表で、「松山型」は今回が初出です。

(本稿は久野徹氏「APOメール 改訂版」(1991年、『ボルドー』第19号所載)を参考にして執筆しました)
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2020年07月28日

新聞原稿は「業務書類」

朝日-2.jpg朝日-1.jpgの封書には支那字入り菊1銭×2枚が貼られ、普通の3銭貼りより1銭少ない。一見してありふれた第4種印刷物か第1種無封書状に見えます。ところが、表面左下部に「原稿」の筆書があります。この2文字が実はこの郵便物のミソです。

日露戦争が終わった直後の1905(明治38)年11月4日に中国・上海の日本局で引き受けられ、大阪朝日新聞社の編集局に宛てられています。差出人は「上海特派員」などの肩書きがなく個人名だけです。まだ海外支局制度がない時期の「上海通信員」の一記者なのかもしれません。

結論から先に言うと、これは手書きの新聞原稿を送った第4種郵便物だと思います。「印刷物でもない原稿がどうして第4種か」という疑問はもっともですが、第4種とは印刷物のことという「常識」は正確ではありません。当時の第4種は雑多な低料郵便物の寄せ集めでした。

1900(明治33)年10月1日から施行された郵便法第18条によると、第4種郵便物には次の6種類がありました。
 ①書籍、②印刷物、③業務用書類、④写真・書画・図、⑤商品見本・雛形、⑥博物学上の標本

第4種郵便物は料金が安く、重量30匁(112.5グラム)ごとに2銭でした。これに対して通常の有封書状の第1種料金は4匁ごとに3銭です。農業奨励のため第4種より更に安かった第5種(農産物種子)と共に、文化振興、産業奨励の政策的優遇料金として設定されました。

話を前に戻して、原稿を「業務用書類」とするには条件がありました。無封は大前提(第18条2項)ですが、内容でも特定の人宛ての通信文でなく、全部か一部を筆書した文書であること(郵便規則第25条)です。原稿を郵送するのは文化振興に当たる業務行為だったのです。

これはGANの勝手な解釈ではありません。戦前の逓信部内で広く使われた業務参考書『郵便讀本』(1935年逓信學館刊、1986年JPS復刻版)に、「(業務用書類の)例を挙げて見れば、原稿、戸籍謄本、履歴書‥‥は多く之に属するであらう。」と例示されています。

上図の封書に仮にA4判サイズの原稿20枚(かなりの長文)を入れて30匁の場合、これを第1種で送ると24銭かかります。しかし、第4種扱いならばわずか2銭です。(24銭-2銭)÷24銭=0.916、つまり第1種に対して第4種は9割引きの超低料だったことが分かります。戸籍謄本や履歴書などなら第1種有封書状としてもたいして違いはありませんが、原稿用紙数十枚に及ぶような長文の原稿は第4種扱いの恩恵を大いに蒙ったことが想像されます。

この封皮は最上部が少し切られていますが、紙縒りこよりを差した綴じ穴があり、無封は明らかです。宛先も「編集局」と企業内の部署の名で、個人間の通信ではありません。第4種郵便物のエンタイアは郵趣市場で駄物扱いですが、恐らく「原稿」は「博物学上の標本」と並んで少ないのではないかと思います。

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2020年06月30日

電報送達紙用櫛型機械印

電報用機械印  札幌.jpg「郵便印」という概念は昔から「郵便逓送に関連して郵便物に押された印」とする考え方が一般的です。GANはこれを「狭義の郵便印」とし、さらに為替貯金印と電信電話印を加えた「広義の郵便印」を立てることを提唱します。「広義の郵便印」は、逓信省の3大事業(郵便、電信電話、為替貯金)に使われる印章類を網羅する概念です。

などという理屈はともかくとして、これまで「非郵便印」などとあたかも2級市民並みの不名誉な呼ばれ方で一括りにされてきた印の一つをお目に掛けます。左図は最近ネットで入手した、札幌局が配達した電報の送達紙です。右下部に大正13年5月17日C欄★3個、下部5本波線付き櫛型印(下図)が青黒色で押されています。電報用機械印  札幌-2.jpg

近年刊行された鳴美の『郵便消印百科事典』にも郵趣協会の『日本郵便印ハンドブック』にも採録されていませんが、載せないのは惜しい。浜松の消印研究家ですでに故人となられた池田進氏は自著『日本消印事典③ 櫛型日付印』(1972年)と『櫛型日付印詳説(下巻)』(1976年)で(恐らく初めて)発表しています。

舌状切込.jpg池田氏の調査によると、この日付印は逓信省工務局が試作した「電報送達紙自動封緘押印機」に取り付けられた印顆によるもので、大正10(1921)年ごろから昭和初期にかけて試用されました。宛名を表に送達紙を四つ折りし、上部に約1㎝の舌状切り込みを入れて折り込む(左図は送達紙右上部の舌状切り込みを折ったもの)と、確かに封緘したことになります。

電文を受信、印字した送達紙をこの機械に掛けると、自動的に押印した上で四つ折りし、切込封緘まで施されてすぐに配達できる形で出てきたのでしょう。波形線は郵便用の唐草印に似ていますが、データサイクル部が櫛型なのがユニークです。この点から平川式機械印に近い、と言うべきかも知れません。使用例が少ないのは試験結果が思わしくなかったことを示唆しているようです。

池田氏は横浜、名古屋(共にC欄★3個)、大阪中央、神戸中央局(共にC欄「電信局」)の印影を示し、他に京都中央局の使用もあるそうです。今回の札幌局は6局目の使用例となります。C欄表示形式に2種類あるのは、★3個は郵便局の電信課が、「電信局」は電信専用局が扱った区分を示すとGANは考えます。

櫛型電信機械印030623.jpg追記 】(2020.07.06) この記事に永富様からコメントを頂き、それがきっかけでこの印の試用告知(右図)が昭和3(1928)年6月23日付「逓信公報」に掲載されていたことを初めて知りました。告知によれば、他に少なくとも東京中央電信局、同局日本橋分室、神戸局でも使われたことが分かります。〈C欄★3個は(普通)郵便局、「電信局」は電信専用局の使用〉というGANの推測も確認がとれました。〈大正10(1921)年ごろから昭和初期にかけて試用〉という上記池田氏の記述は再検討の必要があるのかも知れません。

《電報送達紙自動封緘押印機についての説明は、池田氏の「機械式櫛型電信印」(静岡コレクターズクラブ機関誌『しずおか』1987年1月号所載)によりました。》
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2020年05月26日

満洲丸二型印に左書誤刻

王爺廟-1.jpg龍井村.jpg「満州国」郵政が初期に使った日本製の大型丸二印、いわゆる「満洲丸二型印」に左書きのエラー印が2局あることが分かりました。右に示す吉林省龍井村局()と興安省王爺廟局()のエンタイアです。共に最近のネットオークションで入手しました。

龍井村局印は満州国年号の康徳元年(1934年)10月10日です。横長(平体)ゴチック体の省名「吉林省」が右書き、局名「龍井村」は楷書体で左書き、つまり省名と局名が左右バラバラ書きです(下図の左)。当時の正書法は右書きなので、明らかに局名の方がエラー(誤刻)です。

丸二型印の「元年」は、康徳元年より3年前の大同元年(1931)ということも一応は考えられます。しかし、大同元年10月中はまだ中国郵政の旧印を流用中で、丸二型印の影もありませんでした。当時の情報によると、東京の築地活版所で新たな丸二型印の印顆が出来たのは31年10月末ごろです。現地への発送は11月以降、一斉に使用が始まったのは翌年(大同2年)1月1日からとなりました。

龍井村-2.jpg王爺廟-2.jpg一方の王爺廟局印(左図の右)は康徳2年11月27日で、ゴチック体の省名「興安」と局名「王爺廟」が共に左書きとなっているエラーです。しかも縦長(長体)フォント「王爺廟」3文字の配列が特異です。中央の「爺」だけが半文字分ぐらい下に沈み、垂直のまま外枠の円周に沿っています。

王爺廟局の丸二型印に左書きのものがあることは、既に織田三郎氏が「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』1978年9月号)で報告しています。単片上の一部局名だけが示されました。完全印影は今回が初めてのようで、省名、局名共のダブルエラーだったことが分かりました。

このようなエラー印は、受注した印判業者あるいは活字製作会社のまったくのうっかりミスでしょう。ことに初期は築地活版所で印顆の印枠と省名、日付活字を製造し、局名活字については水牛印材を満洲に送って現地で手彫りしたといいます。ゴチック体と楷書体、右書きと左書きが混じる龍井村局印にはそうした背景がありそうです。

王爺廟局の場合は同一業者が省名、局名活字の両方を同時に製作したはずです。となると、同時期の興安省で王爺廟以外の局ではどうだったでしょうか。省名だけ左書き印、省名・局名とも左書き印がもっと他にもあるかも知れません。
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2020年05月21日

切手でない「弾丸切手」

弾丸切手パンフ.jpg弾丸切手袋.jpg突然ですが、ここでクイズです。本当は切手じゃないのに郵便局で切手として売られたもの、なぁーんだ? 訳知り顔の郵趣家は「それは飛信逓送切手さ」と答えるかも知れません。しかし、明治初年の公用治安情報速達に使われた飛信逓送切手は郵便局で「売られ」てはいません。関係官庁に配布されたのでした。

クイズの正解は「弾丸切手」です。1942(昭和17)年6月8日に1枚2円の定額で発売されました。上の図は郵便局が配った弾丸切手推奨パンフレットと保管用の袋です。太平洋戦争開始からちょうど半年後のことなので、名前だけ聞いて、きっと銃砲弾を描いた切手だろうとか、兵器や軍需品の製造費に充てる寄付金付き切手ではないか、などと考えた人が多かったでしょう。

戦時貯金切手.jpgしかし、それも違います。「弾丸切手」は当局が付けた通称で、正式名称は「割増金附戦時郵便貯金切手」でした。では、二宮金次郎の10銭貯金切手と似たようなものかと思うと、実物(右図)を見れば分かるとおり、そもそも郵便や切手とは形も用途も無縁です。正体は「富くじ付き据置貯金クーポン券」とでも言うほかない、複雑にして奇怪極まる代物でした。割増金とは官庁だけの用語で、富くじ(宝くじ)の当籤賞金のことです。

中国との戦争に加え、英、米、蘭(想定ではソ連も)を相手に無謀な太平洋戦争を仕掛けたので、戦費は底なしでした。日本政府はGDP(国内総生産)の数年分もの赤字国債を発行して当面を糊塗しました。経済力無視の借金付け回しで、戦中・戦後のハイパーインフレは初めから承知でした。しかも戦争の帰趨と無関係に元金の償還期限は確実に迫ります。

政府は国民に国債を買うよう必死に呼びかけました。郵便の標語機械消印にまで「兵は戰線/我等は国債」「求めよ国債/銃後の力」などが氾濫しました。しかし、国債を買えるのは富裕層に限られるため、国民大衆の零細資金に目を向けます。政府は日本勧業銀行に「大東亜戦争報国債券」を発行させ、さらに低額で逓信省貯金局にも発行させたのが弾丸切手でした。共に無利子ですが「売り」は富くじ付き。射幸心を煽って資金をかき集める政策です。

据置貯金証書.jpg弾丸切手は42年6月から毎月1,000万円ずつ発売されました。抽選で毎回1等1,000円から4等2円までの賞金が当たります。92%がはずれ券となりますが、はずれ券5枚(額面合計10円)を郵便局で5年間無利子据置の「大東亜戦争特別据置貯金證書」(左図)に引き換えることができました。結局、弾丸切手とは5枚買って10円の定額据置貯金をするだけのものでした。

弾丸切手には据置貯金以外の使い道はありません。元金の償還や払戻はなく、据置貯金も申込み期限に遅れれば無効、4枚以下や発行時期が異なるものはいくら持ち合わせていても無効でした。貯金局には多数の購入者から使途への疑問や不満・苦情、改善意見などが寄せられていたようで、その一部の手紙や回答文案が国立公文書館に残されています。

そんな始末に負えない「クーポン券まがい」を、当局はなぜ「弾丸切手」と名付けたのか。説明する資料は見当たりません。GANが推測するに、富くじに「当たる」から「弾丸」、郵便局で売るので「切手」、というだけのこじつけでしょう。戦時下国民の愛国心を利用するだけして5年満期時にはインフレで無価値化、という底意も透けて見えます。低俗で姑息、しかも阿漕な官僚発想と言うほかありません。

恐らく弾丸切手はそれ自体で「自爆」してしまい、国債消化どころか売れ残り大失敗に終わったことでしょう。「弾丸切手がお国のため役立った」などという資料には、ついぞお目にかかったことがありません。行き場を失った多くの弾丸切手が80年近く経った今も、亡霊のようにネットなどの古物市場をさまよい続けています。
posted by GANさん at 03:42| Comment(2) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする