2020年04月30日

泰緬鉄道部隊の軍事郵便

5805ビルマ.jpg5805タイ.jpg1957年の米コロンビア映画「戦場にかける橋」は泰緬(タイ・ビルマ)鉄道建設をヒントにしたフィクション娯楽作品です。白人優位・アジア人蔑視が露骨で、絵に描いたような「ハリウッドもの」ですが、日本でも大ヒットしたため、これを史実と思い込む残念な日本人もいます。南方切手の権威とされる土屋理義氏が典型で、「(泰緬鉄道とは)映画『戦場にかける橋』で有名になった鉄道である」などと自著『南方占領地切手のすべて』で堂々と「解説」しています。

歴史認識に弱い土屋氏がご存じなかっただけで、映画公開のずっと以前から日本軍が難工事の末に建設した戦略鉄道として、日泰関係史や戦史研究者らに注目されていました。イギリス、オランダなどの俘虜や現地労務者を使役して虐待や疫病で無数の死者を出し、戦時中から「死の鉄道」と連合国側に非難されて多くの戦犯処刑者を出したことでも有名でした。

GANは泰緬鉄道の建設や運営を軍事郵便など郵便史の上から示すことはできないかと関連アイテムを探求してきました。この作業で根本的に難しいのは、泰緬鉄道に関与した部隊の名称を示す史料さえ存在しないことです。戦犯追及を恐れた陸軍が敗戦直後に東京と現地ですべての泰緬鉄道関連資料を組織的に焼却し尽くしてしまったことが最大の原因です。

史料不足の中で唯一確かなことは、泰緬鉄道建設部隊として第2鉄道監部、鉄道第5聯隊、鉄道第9聯隊、第4特設鉄道隊から成る「南方軍鉄道隊」が編成された事実です。1943年2月に大本営が建設工期短縮を命令したのを受けて発足しました。南方総軍の命令による臨時の編合部隊で、正式な戦闘序列による部隊ではありません。鉄道隊を支援する多数の兵站・補給部隊も臨時配属されましたが、具体的な部隊名は断片的にしか分かっていません。

鉄道監部は複数の鉄道部隊を指揮するためだけの小規模な司令部組織で、他の3部隊が鉄道建設の直接実行部隊です。特設鉄道隊は鉄道省技師を中心に臨時編成された専門家集団で、路盤構築、橋梁建設などの高度な設計・施工に当たりました。鉄道の工区は国境で二分され、鉄9聯隊と4特鉄隊がタイ側、鉄5聯隊がビルマ側の担当となります。

泰緬鉄道は43年10月に全線開通し、その直後に南方軍鉄道隊は役目を終えて解隊されました。第2鉄道監部はインパール作戦準備のために鉄5聯隊を率いてビルマ方面軍隷下に転進します。完工した泰緬鉄道の管理運営は、タイ側を4特鉄隊がそのまま、ビルマ側を今度は鉄9聯隊が受け持ちました。両部隊は南方総軍の直轄下に戻ります。

前置きが長くなり過ぎましたが、ここからが本題です。鉄9聯隊の場合、42年6月から43年10月までは泰緬鉄道のタイ側建設部隊で、翌11月から敗戦後までビルマ側の管理部隊でした。つまり鉄9聯隊の軍事郵便なら、開戦直後のごく短期間を除くすべてが「泰緬鉄道のエンタイア」と言える、極めて分かりやすい部隊なのです。

上の画像で示した2通のはがきがその鉄9聯隊からで、共に戦地の夫から静岡で留守を守る妻に宛てた通信です。の発信アドレスは「泰派遣岡第5805部隊」で、書き込みによって昭和18(1943)年10月6日発 → 11月10日前後着と分かります。は「ビルマ派遣岡第5805部隊」からで、昭和19年4月1日発 → 5月27日着です。「5805」は鉄9聯隊を、また「岡」は南方総軍隷下・指揮下の部隊であることを意味します。

鉄9聯隊は泰緬鉄道完工に伴う上述の任務変更で、実際に43年11月27日にタイから国境を越えてビルマに入り、聯隊本部をタンビュザヤに置いたのでした(厚生省援護局編『鉄道部隊略歴』)。アドレスの変化が歴史上の事実に対応しています。2通のはがきはフィクションとは無縁の泰緬鉄道史の一齣を物語っています。
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2020年03月31日

塘沽停戦協定の駐屯部隊

馬蘭峪-1.jpg馬蘭峪-2.jpg日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。

裏面に河北省唐山局の中継印、表面に馬蘭峪局の到着印があり、唐山を8月28日に経由して馬蘭峪に8月29日に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。日本の支那駐屯軍は条約により北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できなかったので、それではありません。

はがき宛先のアドレス「麦倉部隊」は「満洲国」の熱河省承徳や古北口に駐屯した独立歩兵第11聯隊で、「鈴木部隊」は聯隊から遠く離れた馬蘭峪へ派遣された中隊と思われます。関東軍が万里の長城南側にまで部隊を配置したのは1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定に根拠がありました。

関東軍は満州を守る部隊です。万里の長城が中国と満洲国との国境だったので、関内(長城の内側=山海関・北京・天津地域)に部隊を侵出させることは本来ならできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを画策していました。「北支(華北)分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ線を「停戦ライン」に設定しました。その北方、長城線までの区域を停戦地帯として、中国軍を停戦地帯から追いやります。引き換えに関東軍も満州国内に撤退したのですが、長城線自体は確保し続けるため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定「善後申合せ」の「付属了解事項」という秘密協定で指定されました。山海関、石門塞、建昌営、抬頭営、冷口、喜峰口、馬蘭峪、古北口の8地点です。関東軍の中国本土侵略へのクサビとなりました。後に満洲国が中国領内の山海関と古北口に郵便局を開設したのも、この秘密協定があったためでした。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠の史料となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)
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2020年03月29日

この郵便物は消毒済です

消毒済1.jpg消毒済_04.jpg貼られた切手を抹消してその郵便物を引き受けたことを示す通信日付印(消印)を代表に、パクボー印や停車場印、箱場印や川支印などは引っくるめて「郵便印」と呼ばれています。料金不足や航空など取扱種別を表す印、太平洋戦争中や米軍占領期の検閲印なども、むろん郵便印とするのが郵趣家の常識です。

非常に幅広く使われている「郵便印」ですが、では郵便印とは何か、どう定義されるかは、少し難しい問題を含んでいると、GANは考えます。例えば、官公署が受取人の際によく使われる受領印、監獄の看守や女子寮の舎監が押す検閲印なども郵便印なのか。これらは定義次第で郵便印としての当否が分かれます。

似た例として消毒印の問題があります。明治、大正時代がほとんどですが、「消毒」「消毒済」などの印が押された郵便物の存在が知られています。数十年も昔、「消印とエンタイヤ」の時代から報告されていました。郵便印と認識していた人たちが一定程度はいたはずですが、最近では郵趣界で取り上げられた例を見ません。

外国のケースでは、アメリカで2001年の同時多発テロ事件の直後に炭疽菌入り郵便物によるバイオテロ事件が起き、一定の郵便物を消毒して配達しました。細菌やウイルスの知見に乏しかった明治期の日本でも、コレラやペストなどの感染症が郵便物を介して広まるのではないかと恐れました。

右上に示したはがきは水戸上町局で10月30日に引き受け、群馬県玉村に宛てられています。はがきが紙幣寮銘であること、東京局の中継印が辛うじて「一二」と読めることから明治12(1879)年の使用と確定できます。表面右中央部に「消毒済」の朱印があります。この印がどこで押されたかは不明です。

明治12年は全国でコレラが大流行した年でした。各地に次々と避病院(隔離病舎)が建てられ、大規模な消毒作業が行われたようです。これらに反対する農民が暴徒化して「コレラ一揆」まで起きたといいます。確定する資料は未見ですが、郵便の現業局所でも郵便物の消毒に当たっただろうと想像するに難くありません。

皇宮警察1.jpg皇宮警察3.jpgの封書は明治41(1908)年3月13日に沼津局で引き受けられ、裏面着印によれば京都荒神口局に翌14日に着いています。発信者は沼津御用邸、宛先は宮内省主殿(とのも)寮京都出張所です。封筒の左側中央部に二重丸型「皇宮警察/消毒」の大型朱印があり、出張所を警備する皇宮警察が消毒処置したことを示すとみられます。当時は衛生取締も警察の所管でした。
高輪御殿.jpg
これより前、明治35(1902)年に京浜地方でペストが発生し、数年間にわたって流行が続いたようです。ネズミを通じて伝染すると信じられ、駆除策として役所がネズミ捕獲を勧め、1匹5銭で買い上げたといいます。このペスト禍に関係すると考えられる記事が明治39年8月7日付「逓信公報」告知欄にありました(右図)。

東京・芝の高輪御殿宛ての郵便物は直接御殿には届けず、皇居内の宮内省消毒所に配達せよ、つまり芝局でなく麹町局に送れという指令です。当時の高輪御殿には明治天皇の皇女2人が住んでいました。皇室関係の到着郵便物はいったんすべて消毒所に回すよう宮内省の要請があり、逓信当局が特別措置をとったことが示唆されます。

話を振り出しに戻しますが、現在のGANの考えでは郵便印の定義は「郵便物の引受から配達に至る逓送中に押された、取扱に関わる一切の印章類」です。ここで示した2通の郵便物の消毒印も、名宛人が受け取った後に押された明確な証拠がない限り郵便印です。現今のコロナ禍では郵便にも被害が拡大するのでしょうか。

消毒済-1.jpg追記】(2020.05.24) 本稿は、今回のコロナ禍との関連で「確かスペイン風邪の『消毒済』エンタイアがあったはず」と貧しいコレクションを探したのがきっかけでした。それはなく、代わりに出てきた2通のエンタイアをここに記載しました。ところがつい昨日、偶然開いたシベリア出兵のアルバム中に目指す「スペイン風邪もの」を見つけました。3点目の「消毒済エンタイア」(上図)としてご紹介します。消毒済-2.jpg

民間人旅行者が北樺太のアレクサンドロフスクから発信した絵はがきです。第50野戦局で大正11(1922)年8月7日に引き受けられ、東京の宮内省文書課長に宛てられています。文面などから、発信者はあるいは宮内省の高級官僚かも知れません。はがき右側空白部に角枠「消毒濟」朱印(右図)が押されています。東京に着いて押されたのでしょう。「消毒済エンタイア」は皇室・宮内省関係に目立ちます。

スペイン風邪は1918年から世界中に広まったインフルエンザの一種です。ウイルス起因のパンデミックという点で今回の新型コロナの「大先輩」に当たります。第1次大戦に参戦した米軍兵士がヨーロッパに持ち込んだのが発端とされ、日本では1921年7月まで3回にわたる大流行のピークがあって、一説によると全世界で38万人が死んだそうです。

このはがきは国内での第3波が終わって1年後のものですが、次の流行への警戒は更に続いていたのでしょう。スペイン風邪防止のための消毒とみて間違いないと思います。

追記】(2020.07.15) 別の用件で逓信公報を調べていて、偶然に郵便物消毒の根拠らしい規定のあることに気付きました。1900年10月1日に施行された郵便法(明治33年法律第54号)に次のような条項があります。
第9条 郵便物検疫ヲ受クヘキ場合ニ於テハ他ノ物件ニ先チテ直ニ検疫ヲ受ク
前身の郵便条例時代も含めて、もしこれが適用されているのだとすると、消毒印も郵便印の一部だと言える根拠を得ることになります。その場合はこれらを一括して「消毒郵便」「検疫郵便」という名称が生まれるかも知れません。
posted by GANさん at 03:22| Comment(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

国際軍事郵便なぜ無料?

Egypt-1.jpgEgypt-2.jpg最近のヤフオクで入手した、日中戦争期に華中に派遣された部隊からエジプトに宛てた軍事郵便です。戦地から中国や「満州国」に宛てた軍事郵便はありふれていますが、第3国宛てはあまり目にしません。

この封書は中支派遣田村部隊から4月18日に発信され、三井物産アレクサンドリア支店の日本人に宛てられています。裏面にアレクサンドリア局の到着印が明瞭に押されていて、1940年6月13日に着いたことが分かります。恐らく門司局を経由し、西回り船便で2ヵ月がかりで逓送されたのでしょう。

封筒表面下部の機械印は中継印と思われますが、残念ながら読めません。スエズ、ポートサイド、カイロなどエジプト局の可能性もあります。その右の二重丸印は英語CENSUREDが読め、アラビア語もあるバイリンガル検閲印です。ナチスドイツがヨーロッパを席巻していた時代の雰囲気が感じられます。

ところで、国際郵便を軍事郵便で、しかも無料で出せたものでしょうか。規則に照らせば答えは「否」です。軍事郵便の根本法令である明治37年勅令第19号第6条は「条約ニ依リテ取扱フ郵便物ニハ料金免除ヲ適用セス」との趣旨を規定しています。「条約」はUPU条約などを想定しているでしょう。

この規定によれば、野戦局に差し出された国際郵便でも、UPU料金(この封書には20銭)の切手が貼られていれば有効です。その場合は軍事郵便でなく普通郵便として、軍事郵便交換局と外国郵便交換局を経て逓送されました。実際、20銭や10銭切手が貼られて野戦局で引き受けたアメリカやドイツ宛て書状・はがき数点が知られています。

それではこの「軍事郵便」が無料で引き受けられたのはなぜでしょうか。野戦局員が法令に無知だったとしか言う他ありません。通信文から、発信者は外国語が堪能なため特別に召集された士官(あるいは徴用された軍属)のようです。そういう人が出すのだから問題あるまいと、野戦局員も誤認してしまったのかも知れません。

日露戦争期には高級軍人や観戦武官らの野戦局引受有料国際便カバーがかなり発表されています。しかし、日中戦争期の国際郵便は極めて稀です。時代が下るに連れて軍人の「視野」が狭窄していった、などと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。いずれにせよ無料国際軍事郵便は(違則だったとしても)ユニークで、資料として貴重です。

エジプト検閲3.jpg追記】(2021.02.20) このカバーに押されている二重丸検閲印の鮮明な印影(右図)を入手しました。同時期の同じアレクサンドリア宛て郵便物に押されているので、アレクサンドリア局の検閲印でしょう。なお、本文中で英文文字を「CENSURED」としましたが、これは誤りでした。正しくは「CENSORSHIP DEPT.」で、「検閲局」の意味と思われます。
posted by GANさん at 18:37| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2020年02月29日

恤兵繪葉書型録を作ろう

夜舟.jpg軍事郵便の収集をしていると、そのステーショナリー(はがき、封筒、便箋)にも自然と目が向きます。とくに逓信省が発行した軍事郵便はがきには昔から関心が持たれ、官製はがきの一部としてカタログ化されてきました。

しかし、逓信省製軍事郵便はがきは需要に対して供給力が圧倒的に不足していました。出征兵士は基本的には酒保(しゅほ=旧日本軍用語で、兵舎内や駐屯地に開設される日用品ショップ。米軍でいうPX)でわずかな給料を割いて自費で私製はがきを買い、家郷への通信に充てていました。

そんな実情に配慮したのでしょう。陸軍省は戦争のたび省内に臨時特設した恤兵部(じゅっぺいぶ)で国民からの寄金で「恤兵はがき」を製造し、兵士に配りました。これは日露戦争当時に始まり、満州事変からは数種を組合わせた絵はがきセット(右上は一例)を毎月発行するほど本格化しました。

恤兵部の「恤」は「憐れむ」という意味です。「苛酷な環境下で死をも賭して敵と戦う兵士」を憐れみ救い、慰め励ますという「上から目線」の組織でした。華北の一角に上がった戦火が大陸全土から東南アジア・太平洋にまで及ぶと、もう恤兵路線では100万人単位の需要に実務的に追いつけず、破綻し始めます。

銘版3.jpg日中戦争が始まった1937(昭和12)年に戦争経費の出納を一手に賄う機関として臨時陸軍東京経理部が特設されました。兵士への軍需品供給も任務となり、恤兵はがきの発行を始めます。軍需品供給部門が肥大化すると、陸軍需品本廠として1941(昭和16)年に経理部門から分離、独立し、恤兵はがきの発行も移りました。(は発行された恤兵絵はがきの銘版。上から恤兵部、東京経理部、需品本廠)

経理部も需品廠も恤兵部と併行して恤兵はがきの発行を続けていました。しかし、ただでさえ資材が決定的に不足する中で重複事業は不合理です。恤兵部は1943(昭和18)年、ついに恤兵はがきの発行から手を引きます。以後は敗戦まで需品廠だけが陸軍の恤兵はがきを製造・供給しました。

上記のような知見をGANが得たのは最近のことで、ネタ元は相変わらずJACAR(アジア歴史資料センター)です。この流れを踏まえた『恤兵繪葉書型録』を作ろうと考えています。満州事変以後に陸海軍当局・部隊と逓信官署が発行した膨大な量の恤兵絵はがきをすべて分類しようという壮大?な企てです。果たして完成までたどり着けるのか。あまり(≒ほとんど)期待せずお待ちください。
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2020年02月09日

日露開戦を伝える第一電

動員令.jpg明治37(1904)年2月5日午前7時20分、始業直後の筑前(福岡県)前原局は1本の電報(左図)を受信しました。午前5時55分に熊本局長から管内の各電信取扱局所長に一斉に流された至急局報、通信業務上のいわゆる「ウナ電」です。

電文は「動員(令)出た。今夜は特に注意方督励すべし」です。日露の開戦を明確に伝える内容に、「ついにきたか」と局員らの緊張は最高潮に達したでしょう。開戦となれば県内の小倉第12師団が第一陣部隊として送られることが、地元では半公然の秘密だったからです。

この2月5日という日は、前日の閣議により朝鮮に陸軍の先遣隊を送る命令が発せられた当日です。翌6日に12師団から動員令2.jpg抽出された歩兵4個大隊が佐世保を出港しました。9日に仁川上陸、京城(ソウル)に向けて進撃し、戦闘が開始されます。両国の宣戦布告は10日になりました。

当時の熊本局は九州一円と沖縄県の郵便・電信局所を監督する管理業務もしていました。実はロシアとの戦争を「予告」する熊本局からの電報は、1ヵ月も前の1月8日に始まっています。「動員令今にも発布せらるるやも知れず。(電信)取扱者一同、督励を要す」という至急局報でした。

この電報も、ロシアからの最後の妥協案が1月6日に届いて日本政府が「とうてい受け入れられない」と開戦決意を固めた直後に当たります。GANはこれら一連の電報群を近年のヤフオクで入手しました。日露開戦関係では熊本第6師団への動員発令や電信検閲関連など数通が含まれます。

戦争、とくに開戦の前後では迅速に軍隊を動員、派遣するため電信が最大、最速の連絡手段です。当時の政府や軍部などの当局者は戦争遂行手段としての電信を重要視し、密かな統制に注力していました。その実態は郵趣家でもある竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(2004年)に明らかです。

管理者としての熊本局長は電信取扱局所長に対し、「(部下職員を)督励せよ」と繰り返し叱咤激励しています。こうして、各局の電信職員は期せずして全国民の中で真っ先に戦争情報を知る立場となっていました。
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2020年01月29日

旅順局で籠城2年の書状

captured mail.jpg帝政ロシアが支配する東清鉄道のスポンサー、露清銀行ポート・アーサー(後の旅順)支店からペテルブルグに宛てた書状です。裏面(右図)封じ目に内国料金の7コペーク紋章切手を貼り、1904年8月24日(日本の明治37年9月6日)にロシア旅順局で引き受けられています。近年のeBayで入手しました。

一見して素直なカバーに見えますが、ペテルブルグの到着印はなんと、1906年9captured mail5.jpg月11日(明治39年9月24日)です。通常なら2週間ほどで着くというのに、この書状はまるまる2年間をいったいどこでどう過ごしていたのでしょうか。

その釈明を裏面上部に貼られた封緘ラベルが果たしています。6行にも及ぶロシア語で「この書状は旅順の降伏により日本軍に押収されていたが、ロシア帝国対日使節団を通じてハバロフスク郵便電信局に引き渡され、名宛人に配達された」とあります。

読者各位がすでにご推察のとおり、これは日露戦争で輸送路が途絶して逓送がストップしていた「掩留=延滞カバー」です。しかも日本軍によって押収されたCaptured Mail(押収=捕獲郵便物)だというのです。ラベルはハバロフスク局でロシア軍当局が開封検閲し、再封のために貼ったのでしょう。積極的に「検閲した」と書かれてはいませんが、としたら、これは検閲カバーでもあります。

日本の第2軍は遼東半島南岸に上陸し、04年5月26日に旅順北方の要地・金州の攻略に成功しました。金州守備のロシア軍は追撃を絶つため東清鉄道南部支線の鉄橋を自ら破壊して撤退したので、ロシア軍の旅順要塞は名実ともに孤立します。ただし、当時はまだロシア太平洋艦隊が旅順港内で健在だったので、海路でのわずかな連絡があった可能性は残ります。

さらに乃木大将の第3軍による旅順攻囲完了は8月初旬のことでした。それから1ヵ月後に引き受けられた書状なので、他の郵便物と共に旅順局の地下倉庫にでも保管されたままとなったのでしょう。ロシア側は日本軍の攻撃に耐え抜いて勝利し、遠からず逓送が再開されると信じていたのかも知れません。実際には連絡遮断され籠城7ヵ月の末、05年1月2日に旅順要塞はついに陥落してしまいます。

時がさらに経った講和成立の翌年、日本軍との善後協議のため(恐らく旅順に)派遣されたロシア使節団にこれらの郵便物は引き渡されました。旅順局だけでの限られた期間ですから、郵便物は全体でもそう多くはない量だったはずです。海路ウラジオストク経由で沿海地方の中心地・ハバロフスクに送られ、ようやく逓送ルートに戻ったのだと思います。
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2019年12月31日

何のため「切手検査」?

E58887E6898BE6A49CE69FBB01-2.jpg日頃は日本の郵便について大きな顔でアレコレ知ったかぶりしているGANですが、最近入手したはがきの意味不明なハンコにお手上げです。これご存じの方、どなたか教えてくださ~~い。

ドイツのヒンデンブルグ15プフェニヒ切手を貼りデュッセルドルフ局で1934年7月23日引受の絵はがきです。大阪市東成区生野新家町(現在の生野区林寺の一帯)宛てで、切手検査02.jpg表面に二重丸型紫色「切手検査/〒/東成局」という印(左図)が押されています。

戦前の郵便物に「料金検査」とか「種別検査」「量目検査」といった印はよく見るのですが、「切手検査」は初見でした。切手の何を検査したのか。ホンモノ・ニセモノでしょうか、料金が適正かどうか、でしょうか。ドイツ切手に詳しい収友の新井紀元氏によると、この時期、外国はがきの料金15プフェニヒは適正だということです。

そもそも切手の真偽や料金適合の確認を第一にすべきなのは受け付けた郵便局であり、「問題ないことを確認した上で引き受ける」ことが大原則です。それをさらに逓送ルート上の郵便局、あるいは配達局で再確認して印までも押す――。膨大な時間と手間が掛かり不合理で、あり得ないことです。

では、ある時期の外国来郵便物に限った特別措置か、それとも配達局の東成局がなにか特別な局だったのか。これも、前者は他に例がなく、後者も大阪の平凡な一市内局に過ぎないことから、無関係です。つまり、どう好意的に拡大解釈しても、東成局がこんなハンコを押す理由が見当たらないのです。

貼付切手完全確認_01.jpg貼付切手完全確認_02のコピー.jpg大勢の収友にこれを示して尋ねたところ、「『貼付切手完全確認』というハンコがあったね」と類似例(右図)を指摘されました。しかし、それは切手が完全に貼ってある(=脱落、欠損がない)ことを確認した印です。単に「目視した」に過ぎず、規準に適合するかどうかを「調べた(結果、パスした)」とは意味が違います。

戦後、外国郵便が1946年9月に再開された直後は久しぶりの外国切手が珍しくまぶしく、つい剥ぎ取ってポケットに入れる郵便職員もいたようです。こうした行為を防ぎ「到着時には既に脱落していた」と言い訳もさせないように、東京中央局などの外国郵便交換局でこの印が使われたといわれます。いずれにせよ、東成局は交換局ではありません。

最大の問題は、だれに示すためにこの印を押したのか、でしょう。なぜ東成局だけで使われたのか、もあります。はがきは逓送の最終段階の東成局に到着し、あと手にするのは配達員と受取人だけです。配達員には局内で済ませられるので、これは受取人に対する通知か注意喚起でしょうか。しかし受取人がこの印を見ても、やはり首をひねったことでしょう。

さて、東成局の「切手検査」印はだれに対し、何の目的で押されたのか。知識ある方のご助言をいただければ幸いです。
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2019年11月25日

ハノイ憲兵隊の郵便検閲

河内-1.jpg仏領インドシナ(仏印)に進出していた総合商社の東洋綿花会社河内(ハノイ)支店から名古屋の本社に宛てた航空書状です。1943年(昭和18)3月20日にハノイ局で引き受けられ、東京とタイのバンコクを結ぶ日泰航空便に積まれています。

書状の裏面封じ目には櫛型印に似た「河内日本憲兵隊/検閲済/18.3.20」の青色大型印(下右図)が押されています。表面にも角枠「検閲済」の赤色河内-2.jpg小型印があり、中の「高橋」認印は憲兵隊の検閲担当者と思われます。ハノイで日本軍の検閲を受けたことが分かります。

この「河内憲兵隊検閲印」はずっと昔、『消印とエンタイヤ』誌の時代に報告がありました。しかし、GANには不思議でした。仏印は第2次大戦下でもフランス(ビシー政権)が主権を維持し、日本軍の占領を受けていません。邦人の通信とは言え占領地でもない仏印で、なぜ日本軍が検閲できたのか。

長年の謎だったのが、ごく最近になってようやく解けました。南部仏印と北部仏印、それと仏印同様に主権国家だったタイとの間で日本軍の検閲を認める計3件の現地業務協定があったのです。これまで公表されたことのな検閲協定.jpgかった秘密文書で、アジア歴史資料センター(JACAR)の公開資料から見つかりました(左図)

日本軍は「援蒋ルート遮断」を名目に、太平洋戦争開始前年の1940年から「北部仏印進駐」によりハノイに、そして翌41年の「南部仏印進駐」によってサイゴンにも駐屯していました。しかし、検閲は2次にわたる進駐時にではなく、開戦直後に日本軍が仏印当局に迫って締結した「日仏印共同防衛協定」に基づくものでした。

河内-3.jpg北部仏印での検閲の業務協定は42年6月19日に日本陸軍と仏印総督府の間で締結され、即日実施されました。日本軍と仏印当局はハノイとハイフォン(海防)の両局で郵便と電信の共同検閲を行う、日本人発受の通信はすべて日本側が、仏人や仏印人の通信は仏印側が検閲に当たる、など8項目が定められています。

この協定により、仏印在留邦人が差し出したり受け取る郵便物に限り日本の憲兵が合法的に検閲できることになりました。反対に、日本人以外の郵便物には、敵性あるもの(英、米、蘭側)を除いて日本憲兵も手出しできません。フランスの主権は辛うじて守られた形です。

今回の文書発見により「河内憲兵隊検閲印」は「北部仏印進駐」とは無関係であることが明確になりました。太平洋戦争開戦に関わる軍事的検閲という位置づけになると思います。
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2019年10月30日

内地兵営で部隊検閲開始

部隊検閲01.jpg部隊検閲04.jpg召集を受け青森市郊外の第8師団歩兵第5聯隊に入隊した兵士からのはがきです。昭和12年(1937)10月7日の青森局機械印で引受けられています。

これだけなら、ありふれた「入営挨拶状」に過ぎませんが、はがき表面の下部に押された角枠「十月七日/中隊長点検済」の紫色スタンプ(「十」「七」は手書き)が目に付きます。差出人の新兵が属する中隊の、いわゆる「部隊検閲」印です。通信文の一部が抹消されているのは、召集の種別を書いたため検閲に引っかかったのかも知れません。

このとき、第5聯隊は青森に「留守隊」を残し、第8師団主力に従って「満州国」北東部の綏陽周辺に駐屯していました。差出人も短期間の補充兵訓練を経て、遠く北満州の駐屯地に派遣されたはずです。時期的に言って日中戦争初期の激戦中なので、検閲が実施されたのはそうした「緊張感」の反映かも知れません。

初期検閲#02.jpg初期検閲#01.jpg似た例をにもう1点示します。やはり第8師団に属する青森県弘前市の部隊からで、上図より1ヵ月早い12年9月5日の弘前局引受印があります。消印に重なって押された検閲印らしい認印は「石岡」と読めます。部隊名が「口澤」か「日津」か分かりませんが、弘前駐屯の歩兵第31聯隊、騎兵第8聯隊、野砲第8聯隊のいずれかではないかと思います。

軍事郵便、あるいは服役(在営)中の兵士からの郵便が検閲を受けたことは、今日では常識のようになっています。ところが意外なことに、この部隊検閲がどのように始まったのか分かっていません。検閲の開始時期や根拠、運用などの事情を明かす軍側の資料が見つかっていないのです。

日露戦争時代には、戦地からの無料軍事郵便でも陸軍は無検閲が原則でした。軍事切手貼りの軍事郵便も検閲されていません。反面、太平洋戦争時代になると、台湾、朝鮮も含む内地(戦場の後方)の兵営にいるだけで、一兵卒から将校、さらには「閣下」と呼ばれる将官の師団長、軍司令官に至るまで例外なく検閲を受けています。

無料軍事郵便の検閲については別に考えるとして、内地部隊の兵士の郵便が検閲を受けるようになったのはいつからか、に関心を持って関連する郵便物を集めてきました。GANの知る限り、在営兵士の発信で部隊検閲を受けた郵便は、に示した2点のはがきが最古の使用例です。第8師団として隷下部隊に検閲を指示していたのかも知れません。

では、内地の部隊検閲は日中戦争の開始によって始まったのでしょうか。37、8年中の「入営挨拶状」はたくさんありますが、大部分は検閲を受けていません。この2点が例外的に早いのです。「戦時下」となっても陸軍省・参謀本部に検閲についての統一方針がなく、部隊ごとの判断に任されていたように見えます。
posted by GANさん at 18:21| Comment(0) | 郵便検閲 | 更新情報をチェックする